飯山市・神戸の大イチョウ-小菅の里の謎-

長野県飯山市神戸の「大イチョウ」

長野県天然記念物

樹高約36m。幹周約14.7m。

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写真: 2018年9月撮影©MY

台風19号による災害のお見舞い

この記事を書き始めてすぐに、台風19号が上陸し各地に甚大な被害をもたらしたことを知りました。

被災された方々に心からお見舞い申し上げるとともに、一日も早い復興をお祈りいたします。

千曲川の氾濫によって飯山市も大きな被害を受けたとのことで、心配しております。本格的な寒さに向かう時節、皆様どうぞご自愛くださいませ。

飯山市を応援したい方への情報

信州いいやま観光局のサイトの「トピックス・お知らせ」のページに、11月13日付で「飯山応援宿泊プラン第2弾」というお知らせ記事があります。

飯山市の観光施設は通常営業を再開しているそうです。飯山を訪れて復興を応援しましょう!

信州いいやま観光局のサイト「トピックス・お知らせ」

出発

皆様、こんにちは。

長野県飯山市にある神戸の大イチョウは、まずその大きさに圧倒されますが、この大イチョウの前の鳥居にも興味を持つのは私だけでしょうか。

鳥居があっても神社はなく、鳥居の神額(しんがく)と呼ばれる部分には「三寳大荒神(さんぼうだいこうじん、さんぽうだいこうじん」と書かれています。神様の依り代なのでしょうか。由来や伝説などを調ベる旅に出発!

長野県最大の木

神戸(ごうど)の大イチョウのある場所は、飯山市瑞穂(いいやましみずほ)で、神戸は瑞穂に含まれている地区で、飯山市瑞穂神戸という表記も見られます。

この大イチョウは長野県の天然記念物に指定されているほか、国の重要文化的景観に選定されている「小菅の里及び小菅山の文化的景観」の範囲に含まれています

神戸の大イチョウの樹齢は推定500年、樹高約36m。幹周約14.7mだそうです。樹齢に関しては、参考にした紹介記事によって違いがあるので、この点については後で取り上げてみたいと思います。

神戸の大イチョウは、非常に背が高く(約36m)、長野県で最大の木だそうです。1917年出版の『日本伝説叢書・信濃の巻』(藤沢衛彦編、日本伝説叢書刊行会)によれば、黄葉の頃には4里(約15.6キロメートル)離れたところからも見えると言われていたそうで、現在も遠景から大イチョウの写真を撮っている方が結構いらっしゃいます。

大イチョウの前の鳥居の神額には「三寳大荒神」と書かれており、根本に石の祠があります。また、木下には赤い屋根の木造の祠もあるようです。祠がふたつあるというのは、何か意味があるのでしょうか。

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神戸の大イチョウと石祠
2018年9月撮影©MY

幹には注連縄(しめなわ)が張られていますので、神聖な木なのですね。

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神戸の大イチョウと木の祠
2018年9月撮影©MY

見ごろはいつ?

「黄葉も落葉もこの地方では最も遅いとされる。」とのことで、葉が黄金色に輝く大イチョウの見ごろは、毎年11月下旬ごろだそうです。この頃にはライトアップされる日もあるので、見に行かれる方はチェックしましょう!

2019年のライトアップ予定:11月23日(土)・24日(日)。正式に決まるのは11月中旬だそうです。どうぞ再確認してください。

落葉が始まって地面が黄金色の葉で埋め尽くされた風景もいいですよね。

個人的には、落葉樹の見ごろは四季折々にあると思います

圧巻の大きさを誇る木だけに、葉が青々としている時期もまた、自然の偉大さを実感できるはずですし、落葉後は枝の形状がよく見えます。

三寳大荒神(三宝大荒神)とイチョウ

神戸の大イチョウにある石祠には、火伏の神様である三宝大荒神が祀られているそうです。

三宝は、仏・法・僧のことであり、この三宝を守る神が「三宝荒神」だとするのが一般的な解釈のようですが、生活に不可欠な土・火・水を三宝とするという説もあります。

仏・法・僧の三宝に関して、仏教とのつながりは、修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ)、つまり役行者(えんのぎょうじゃ)が三宝荒神を感得したことによるとされています。

神戸の大イチョウに三寳大荒神の祠ができた時期がいつかという情報は得られませんでしたが、役行者は小菅の里とゆかりのある人物なので、後ほど詳しく調べてみましょう。

三宝荒神は、不浄を嫌い、火が最も清浄なものであることから、家の中で火のある場所、かまどの神様として祀られたという説、荒神は火伏せの神であることから、かまどの神として信仰されてきたとする説などがあります。

また、イチョウは防火性の高い木として知られています。火災になると水を噴くという言い伝えもあるほどで、火伏(ひぶせ)の木と呼ばれているイチョウのある神社やお寺はいくつもあります。実際は水を噴くというより、葉に水分が多く含まれていることによる耐火性のようです

仙台市にも三寳大荒神を祀り火伏の木として植えられたイチョウがあります。

「大荒神」の「大」の説明は見つからなかったので、これは謎のままにしておきます。

雪だめしの木 

「雪だめし」とは聞き慣れない表現ですが、神戸の大イチョウの落葉の仕方でその後の雪の降り方がわかるという言い伝えだそうです。落葉が少しずつなら、雪も徐々に降り、一度にたくさん落葉するときは急に大雪になるとのことで、落葉と降雪のイメージが重なり、そこだけの時間が流れているかのようです。

「雪例樹(ゆきためしぎ)」という風流な呼び方もあるようです。

このように木を通じて雪の降り方を予想するというのは、他に例のない、この神戸の大イチョウだけにまつわる特別な伝承かもしれません。

イチョウの落葉の仕方について調べてみると、イチョウが一斉に落葉する現象は、良くあることらしく、数時間で全てが落葉してしまうこともあるそうで、それは落葉のメカニズムに原因しているそうです。葉柄にできる離層という組織が弱くなって落葉するそうですが、なぜ一斉に離層ができるかは解明されていないようです。「日本植物生理学会-みんなのひろば-植物Q&A」登録番号2791の回答がわかりやすいです。

母乳祈願の木

神戸の大イチョウには、瘤(こぶ)のようなものがいくつもできており、それが長く伸びて垂れ下がっている形が乳房に似ているということから、母乳祈願の風習があります

明治20年(1887年)出版の『信濃奇勝録・巻之五』(井出道貞著他)では、小菅の七石八木と称されるものの中に、「乳木(ちちき)」という名で含まれています

『イチョウ巨樹の乳信仰-歴史研究の資料に関する課題』(2018年、児島恭子)によると、「乳イチョウ」と呼ばれる木は全国に200本以上あるそうです。

また、母乳祈願には、樹皮を削ったものや枝葉を煎じて飲む、お供え物をする、といった様々な方法があることが知られていますが、神戸の大イチョウでは特別な方法が風習となっているわけではないようです。

垂れ下がった部分はサイト検索では、ほとんどの場合、気根と紹介されていますが、実際は根ではないようです。これからの研究によって詳細が明らかになっていくことでしょう。

「日本植物生理学会-みんなのひろば-植物Q&A」登録番号0575の回答がわかりやすいです。

この部分は「乳柱」とも、「乳(チチ)」とも呼ばれ、英語でもフランス語でも「Chichi」のままです。

前述の『信濃奇勝録・巻之五』には、「最長するものは地*入て丸き柱を立てるが如し地に届*るは又枝葉を生*珍奇の神木なり」とあり、挿絵には本当に柱のような乳柱が描かれています。

注:*は読めない文字

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国立国会図書館デジタルコレクションより、『信濃奇勝録. 巻之5』(井出道貞 等著[他]、井出通、1887年)-コマ33-

神戸の大イチョウと秋葉三尺坊:樹齢を推定してみる

神戸の大イチョウの樹齢は、「推定500年」や「500年超といわれる」のように、約500年と紹介されていることが多いですが、資料によっては、「約700年」、「約1500年といわれる」、「千数百年といわれる」と書かれていることもあります。この大きな差はどうしてなのでしょうか?

由来から推定してみると・・・

神戸の大イチョウの由来は次のように伝えられているそうです。

「中世より小菅庄内の良蔵坊門前の木と伝えられている。秋葉三尺坊という人物が良蔵坊の主となった際にこのイチョウを植えたという伝説がある」

『文化的景観「小菅の里」』,p.274(平成26年、監修・編集・発行:長野県飯山市教育委員会) より引用

「小菅庄」というのは中世の頃の小菅の里の呼ばれ方だそうです。秋葉三尺坊が誰であるかわかれば、イチョウの樹齢も推定できるはずですね。

秋葉三尺坊は実在した人物と言われ、年代と主要な場所がはっきり示されている場合もあります。

  • 信濃の戸隠村の岸本家で生まれた。名前は周国(かねくに)
  • 4歳で越後蔵王権現に修行に出かけた修験者。
  • 10歳の時に戸隠に戻った。
  • 後に、越後蔵王権現の十二坊の内の三尺坊で修行をした(または住職となった)ことから三尺坊と呼ばれるようになった。
  • 27歳の時に神通力を得て迦楼羅天(かるらてん)に神変した

生まれが778年、修行に出た4歳の時が782年とされています

秋葉の名の由来としては、迦楼羅天になった三尺坊が白狐に乗って舞い降りた場所が、遠州(静岡県)の秋葉山であったこと、そこに現れたガマガエルの背中に「秋葉」の文字が浮かんでいたことなどが伝えられています。

秋葉三尺坊が小菅の良蔵坊にいた時期はわかりませんが、778年生まれということから、800年~810年頃に植えたとして、イチョウの樹齢は約1200年ということになります

秋葉三尺坊の到来時期を13世紀(1294年)、または16世紀(1571年)とする文献もあるそうです。

でも、愛知県の福厳寺に540年続く火渡り神事である「あきば大祭」の由来によると、秋葉三尺坊は15世紀にはお寺の守護神となっていたはずですし、16世紀には上杉謙信が秋葉三尺坊大権現を祀る秋葉神社を創建していることからも、秋葉三尺坊の到来時期は15世紀より前のことのように思われます。

ひとつ注意しておきたいことは、神戸の大イチョウの由来で、「秋葉三尺坊という人物が良蔵坊の主となった」という言葉です。「秋葉」の名前は迦楼羅天になった三尺坊が着いた秋葉山から付いたのですから、良蔵坊にいたのが迦楼羅天になる前なら、秋葉の名は無く三尺坊という名だけだったはずです。

神戸の大イチョウの由来で秋葉三尺坊の名が語られ始めたのは、三尺坊が良蔵坊にいた時期より後で、その頃には秋葉三尺坊の名前が既に広く知られるようになっていたと考えられるのではないでしょうか

ここでイチョウの樹齢についてもう少し考えてみたいと思います。「生きた化石」と呼ばれるイチョウは、氷河期に絶滅したと考えられていたものが中国で見つかり、鎌倉時代から室町時代にかけて日本に伝わったものであるというのが現在の一般的な見方です。

この見方に従えば、中国でのイチョウの普及が11世紀で、すぐに日本に伝わったとしても、日本のイチョウの木は、最も古くても樹齢は約1000年ということになります

しかし、日本には樹齢が1000年以上というイチョウが何本もあって、由来が伝えられているものも多いですし、イチョウの中国での発見の時期にしても、日本伝来時期にしても、それは現在まで得られている情報にすぎません。イチョウに関する更に古い記述や遺物が見つかれば、もっと昔の時代まで遡れることになります。

神戸の大イチョウも由来の言い伝えから推定する樹齢が約1200年であってもいいですよね。

言い伝えの意味や歴史背景を探ることで、昔の人々と私たちが時を超えて心の中で交流できるのではないでしょうか。

いつ頃から言い伝えが始まったのか(あるいは内容が変わったのか)、それはなぜだったのか、当時の人々の思いを知ることができるかもしれません。

小菅の「七石・八木」から考えてみると・・・

小菅には「七石・八木」(7つの石と8本の木)と呼ばれるものがあって、そのうちのいくつかが現在まで残っているそうですが、神戸の大イチョウは「乳木」という名で八木の中の1本になっています。

この「七石・八木」を記録している文書として次の2つが知られています:

  • 『小菅神社伝記』(文化14年・1817年に複製されたもののようで、原本の成立年はもっと古いようです)、
  • 『信濃奇勝録』(1834年脱稿、明治20年・1887年出版)

残念ながら、この2点の資料からは時代をあまり遡れないので、「七石・八木」からの樹齢の推定は断念します。

小菅の古い絵図を見てみると・・・

小菅の霊場のかつての様子を描いた絵図が2点あります。

どちらもパンフレットや報告書などの中に含まれているため、このブログに絵図だけコピーすると著作権上問題があるので、ご興味のある方は次のサイトからダウンロードしてご覧ください。 全国遺跡報告総覧

『文化的景観「小菅の里」』平成26年(2014年)、監修・編集・発行:長野県飯山市教育委員会)
PDFのページ表示で4ページ目と5ページ目にあります。

「延享3年小菅山元隆寺絵図」(絵図の中では、「信濃国高井郡小菅山絵図」となっています)延享3年=1746年

このブログでは、以下、「1746年・延享3年元隆寺絵図」とします

「信州高井郡小菅山元隆寺之図 永禄九年」(絵図の中では、「信濃高井郡小菅山元隆寺之図永禄九年」となっています)永禄9年=1566年

このブログでは、以下、「1566年・永禄9年元隆寺絵図」とします

この絵図は、小菅パンフレット(PDF)にイラスト風のカラーバージョンがあります。

信州いいやま観光局の「小菅の里を歩く」のページからダウンロードできます。

絵図はパンフレット2ページ目。

注:元隆寺は、明治時代の神仏分離によって小菅神社となる前の名称です。

この2点の絵図には「七石・八木」という名称は入っていませんが、複数の石と木が名前入りで描かれています。

「1566年・永禄9年元隆寺絵図」で気付くこと:

  • 神戸の地名が記入され、その下側に「龍光坊」の名とともに坊の絵が描かれているが、「良蔵坊」の名は無い。龍光坊の壁も描かれており、その内側と外側に樹木が描かれているが、イチョウだと判別できるものはない。ただ、小さな丘のようなものの上に比較的大きな木が1本描かれている
  • それとは逆に、八木に入っていない木も含め、「五本杉」、「太平杉」、「クラカケ松」、「桂木」といった名称まで記載されている樹木もある。
  • 「龍光坊」に並ぶように「三大明神」の建物も描かれている。神戸の大イチョウの三寳大荒神と三大明神と何か関係があるのだろうか?

イチョウとはっきりわかるものは描かれていませんが、1566年にはイチョウが存在していたと仮定して、描かれていない理由を考えてみます:

  • 絵を描いた人はイチョウの存在を知らなかった
  • 目立つほどの存在ではなかったので、描かなかった
  • 何らかの理由があって、描かなかった(存在を隠しておきたかった、描くのを恐れた、など)

次に「1746年・延享3年元隆寺絵図」ですが、拡大して見ると詳細がぼやけてしまいますが、『文化的景観「小菅の里」』の説明も参考にして見ると、次の点が注目されます。

  • 「神戸のイチョウ」とみられる大木が描かれ、その脇に「龍蔵坊」の名が書かれている。
  • 「イチョウ」や「乳木」など文字での記入は無い。
  • 「三大明神」も無く、イチョウだけが山裾にあるように描かれている。

つまり、1746年には、イチョウはかなり大きくなっていたことがわかりますが、それ以外の情報(その木がイチョウであることなど)は伝えようと思わなかったのではないかと考えられます。

神戸の大イチョウと長光寺の大イチョウとの関係から・・・

神戸の大イチョウが元になって成長したと言われるイチョウがあります。木島平村穂高(きじまだいらむらほたか)にある長光寺の大イチョウです。

秋葉三尺坊が神戸のイチョウから枝を取り、杖として持ってきたものを刺したのが長光寺のイチョウだと伝えられています。杖を逆さに刺したことからイチョウの上の方が太くなり、「逆さイチョウ」とも呼ばれるそうです。

この長光寺の大イチョウは、樹齢が700年と言われています

神戸の大イチョウも長光寺の大イチョウも同じ秋葉三尺坊が植えたものなら、長光寺のイチョウも樹齢が1200年ぐらいと計算されますが、異なった見方もできます。

  • 神戸のイチョウも長光寺のイチョウも、樹齢が近いのかもしれない。
  • どちらも樹齢700年なら、秋葉三尺坊の実際の出生は14世紀なのかもしれない。
  • 秋葉三尺坊の名前で伝わってしまったが、実際は別の僧によるものだったのかもしれない。

秋葉三尺坊がイチョウを植えたと伝えられているのは、神戸と長光寺のイチョウだけでしょうか?少し調べただけですが、他のイチョウで秋葉三尺坊が植えたとされているものは見つかりませんでした。長光寺は神戸の大イチョウから数キロのところにありますので、秋葉三尺坊とイチョウの話はこの地域だけに伝えられてきたのかもしれません。

樹齢についてのまとめ(秋葉三尺坊が植えた場合)

  • 秋葉三尺坊が778年生まれだとして、20歳頃に植えたとしたら、樹齢約1220年
  • 秋葉三尺坊の到来時期が13世紀なら、樹齢約820年~720年
  • 秋葉三尺坊の到来時期が16世紀なら、樹齢約520年~420年(ただし前述のように到来時期が16世紀の可能性はかなり低いと考えられます)
  • 絵図の中では「七石・八木」という示され方はされていない。
  • 「七石・八木」に関する現存する最古の記述が『小菅神社伝記』だとして、成立年がよくわからないので、樹齢を計算できない。

補足・・・

イチョウの幹は1年に約2ミリ成長するとみられているようですが、一定した成長をするとは限らず、また、乳柱が多かったり、株立ちになっている場合は、幹周から樹齢を推定するのは難しいそうです。

秋葉三尺坊がイチョウを植えた理由は?

秋葉三尺坊はなぜイチョウを植えたのでしょうか?

可能性その1「ぎんなんを食べるために植えた」

ぎんなんは医薬品として使われていたそうなので、可能性として入れておきます。

ただし神戸の大イチョウは雄木なので、ぎんなんはできません

でも、ぎんなんからは雄雌の区別ができないと思いますし、挿し木をした場合でも、イチョウに雄木と雌木があるのを知らなかっただけかもしれません。

可能性その2「防火のために植えた」

神戸のイチョウは、現在では火伏のイチョウとして知られていますが、それが目的なら、植えた時にイチョウの耐火性が知られていたことが前提になるはずです。

つまり、イチョウが火災にあっても燃えにくかったということを自らが体験で知っていたか、あるいはそうした話が伝えられて知っていたことになります。

様々な例を調べてみましたが、イチョウが水を噴いたという言い伝えは、江戸時代から広まったようです。有名な本能寺の火伏のイチョウの話も、本能寺の変の時のことではなく、天明の大火(1788年)でのことのようです。神戸のイチョウが植えられた時期が、日本でイチョウが広まったとされる室町時代だとしても、イチョウを防火のために植える習慣があった可能性は低いのではないでしょうか。

ところが、秋葉三尺坊自身が火伏と関係しています。

秋葉三尺坊は秋葉大権現であり、火伏せの神様として知られ、全国には秋葉大権現を祀る秋葉神社が約400あるそうです。なぜ火伏の神様になったのかについては、火などの七難を防ぐ、火防の霊場を開いた、大火から人々を救った、などの様々な言い伝えがあります。

ただ、秋葉三尺坊が火伏の神として全国に広まったのは、江戸時代のようです。

神戸の大イチョウに関して、「古時遠州秋葉三尺坊此土に来り、良蔵坊の主となり居ること数年、其際境内鎮守三寶荒神の側に此銀杏樹を植ゆと。」いう記述があることがわかりました。(「レファレンス協同データベース」、管理番号:県立長野-18-069)転記用URL

この記述だと、神戸にイチョウを植えたのは秋葉三尺坊が遠州(静岡県)の秋葉山に舞い降りた後になりますが、先ほど述べたように、神戸に三尺坊がいた時期が秋葉山に降りる前で、秋葉の名前は後に付いたと考えることにして、ここでは「境内鎮守三寶荒神の側に」という部分に注目したいと思います。

前述の「1566年・永禄9年元隆寺絵図」では、「龍光坊」の上の方の小さな丘らしきものの上に比較的大きな木が1本描かれ、そのすぐ近くに「三大明神」と記されています。「三大明神」が「三寶荒神」であれば、「境内鎮守三寶荒神の側に」という記述は、絵に描かれた様子と一致します。記述のある資料は明治期に書かれたようですが、「1566年・永禄9年元隆寺絵図」の方は実際の成立年が疑問視されてはいるものの、もし絵の中に記されている永禄9年(1566年)が正しければ、イチョウは既に存在していた可能性があります。もちろん、絵だけではイチョウかどうかは全く判別できないのですが・・・

いずれにしても、火伏の木であるイチョウを火伏の神となる人物が植えるということに、何かひっかかるものを感じます。

可能性その3「墓標として植えた」

墓標として植えたと伝えられているイチョウが全国には何本かあるようですが、神戸のイチョウの場合は、由来の内容からすると、墓標というのは可能性が低いように思われます。

可能性その4「何か意味や目的があって植えたが、今ではわからなくなってしまった」

ぎんなんや防火というイチョウの特徴に理由があったというよりも、元になったイチョウに理由があったのではないかとも考えられます。

  • 長光寺の大イチョウが神戸の大イチョウに由来しているように、元隆寺と関係の深いお寺や神社のイチョウから挿し木をした。
  • 元になったイチョウに関わった人物との縁をつなぎたかった。

あるいは、イチョウという木に対する特別な見方や感情などがあった(信仰的な理由など)。

  • イチョウにまつわる言い伝えがあった。
  • イチョウを何かの象徴にしたかった。
  • イチョウの外見(葉の形など)に意味があり、そのために植えた。

医薬品としての利用や火伏のように、多くの人々に知られていたことが理由ではなく、植えた人(または植えさせた人)の個人的な考えや思いによって植えられた可能性もあります

秋葉三尺坊がいた良蔵坊とは?

さて、「秋葉三尺坊が良蔵坊の主となった際にこのイチョウを良蔵坊門前に植えた」という伝説の中に出てくる「良蔵坊」について調べてみたいと思います。

前述の2点の絵図のうち、「1566年・永禄9年元隆寺絵図」には「良蔵坊」は無く、神戸の地名の近くに「龍光坊」の名があります

「1746年・延享3年元隆寺絵図」の方には神戸のイチョウとみられる大木が描かれ、その脇に「龍蔵坊」の名が書かれています。

「龍蔵坊」と「龍光坊」は同じ坊のことだと思われますが、「良蔵坊」の存在はどのように調べたらいいのでしょうか?

『文化的景観「小菅の里」』によると、良蔵坊は元隆寺の坊のひとつで、良蔵坊跡と伝わる神戸遺構群があるそうです

良蔵坊についてはこれ以上の情報が得られませんでしたが、神戸の大イチョウが2015年に国の重要文化的景観に選定された「小菅の里及び小菅山の文化的景観」に含まれているのは、ただ単に雪だめし木・乳の木という2つの呼ばれ方を持つ巨樹というだけでなく、小菅の修験霊場の歴史の構成要素だからということに気付きます。

大イチョウのある神戸(ごうど)と小菅との関係について調べてみましょう。

飯山市の神戸(ごうど)周辺には遺跡が多い

飯山市には遺跡が多く、市のサイトでは分布図を約20の区域に分けて紹介しています。1区域には複数の遺構、古墳、城址などがありますから、合計するとかなりの数になります。

神戸周辺で最も大きな遺跡は、宮中(みやなか)遺跡のようです。宮中遺跡では、先土器時代から平安時代までの遺物や、縄文時代後期の石棺墓などが発見されています。

また、神戸は律令制における郡・里・郷において、神戸郷としての存在が知られています。ウィキペディアの「神戸(民戸)」の記事では次のように説明されています。

「神戸(かんべ/じんこ)とは、古代から中世の日本において特定の神社の祭祀を維持するために神社に付属した民戸のこと。」

「神戸(民戸)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』. 2017年12月18日 (月) 15:07 UTC , URL :https://ja.wikipedia.org/wiki/神戸_(民戸) より引用

大イチョウのある神戸の読み方は「ごうど」ですが、ある資料の中に神戸郷の名が記載され「かんべ」というふりがなが付いていたので、読み方が途中から変わったのかもしれません。地元の方ならご存知なのでしょうが、外部の通りすがりのウェブ旅人である私にはこれ以上のことはわかりません。

ただ、同じウィキペディアの記事には、次のようにも書かれています。

「神社の土地である「神戸」を由来とする神戸(かんべ/ごうど/こうべ/じんご)と呼ばれる地名または姓が今日においても広く用いられている。」

「神戸(民戸)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』. 2017年12月18日 (月) 15:07 UTC , URL :https://ja.wikipedia.org/wiki/神戸_(民戸) より引用

以上のことから、神戸は律令時代には神社に属していた場所だったと言えます

小菅の里の「神戸」は結界の村だった

神戸という地名が神社と関係があったことがわかりましたが、ではなぜ小菅の里の他の地域ではなく、今イチョウのある地域にこの名前が付いたのでしょうか。

神社結界地は4か所あり、それぞれ神域への入口となる鳥居が設けられていて、その結界地の一つが神戸口でした

『長野県飯山市小菅総合調査報告書-市内遺跡発掘調査報告 第二巻 調査・研究編』(2005.3長野県飯山市教育委員会)(P.51-56)で紹介されている1542年の「信濃国高井郡小菅山八所権現井元隆寺由来記」の抜粋(現代語訳付き)によると、

  • 山麓に小菅山の神領である村が7つあり、この7つの村は結界神堺で殺生禁断の地だった。
  • 結界を示すために、西、北、南に鳥居が建てられていて、南の鳥居は神戸口と小見と呼ばれるところにあった。
  • 境内には古い木が多い(ただしイチョウについてはふれられていない)
  • 1365年に小菅山に火災があり仏殿などの建物は全て焼失したが、1368年から1388年までに再建され、ほぼ元通りになった。

また、『長野県飯山市小菅総合調査報告書-市内遺跡発掘調査報告 第一巻 概要編』(2005.3長野県飯山市教育委員会)によると、小菅山に入るには3つのルートがあり、そのうちの南ルートが神戸から風切峠を登って桂清水につながるものだったとのことで、神戸は、結界の地であると同時に小菅山への道の入口のひとつだったということになります。同資料の11ページに大変興味深い説明があります。

「神戸の地名は神途にもつながり、こちらが小菅の古い時期の正規の入口であった可能性もあります。神戸から小菅の集落に行くに際しては風切峠を越えますが、そこに様々な石仏がおかれ、悪いものが入ってこないようにと集落を守護しています。」

『長野県飯山市小菅総合調査報告書-市内遺跡発掘調査報告 第一巻 概要編』,p.11(2005.3長野県飯山市教育委員会) より引用

神戸のイチョウがいつ植えられたのかはわかっていませんが、植えられた場所は、小菅山という神聖な場所への入口だったのです。

小菅山からの眺望に隠された秘密

さて、先ほど神戸は小菅山に入る3つのルートのひとつの入口だということがわかりました。ただ、観光マップや絵図では、小菅山の麓から山の上に向かってまっすぐな道があり、上の方に行くと少し曲がりくねった道になっています。神戸は中心部から離れたところにあり、神戸から小菅山へのルートがあったことさえ、よくわからなくなっています

しかし、次の2点の資料を調べると、更に驚くことがあったのです。

  • 『長野県飯山市小菅総合調査報告書-市内遺跡発掘調査報告 第一巻 概要編』(2005.3長野県飯山市教育委員会)
  • 『文化的景観「小菅の里」』平成26年(2014年)、監修・編集・発行:長野県飯山市教育委員会)

このまっすぐな道は東西方向に延びているそうですが、中世以前は、この道からはかなり離れた場所にある神戸から風切峠を通って行く南北ルートが中心だったそうです。後に作られた東西の直線的な参道によって、小菅の霊場の構図が大きく変化したことが明らかにされています。

しかも、この東西に延びる参道から西方向の正面に妙高山が眺望できるため、この眺望は意図的に取り入れられたのではないかと考えらえていました。

妙高山は新潟県にあり、その名前は「須弥山(しゅみせん)」に由来すると言われています。須弥山とは、仏教の世界(宇宙)観において、中心にそびえる高い山のことだそうです。サンスクリット語の「スメール(シュメール)」が須弥山の語源だそうで、この須弥山という言葉の訳が妙高山とのことです。

妙高山は708年に裸行(らぎょう)上人によって開山されたのが始まりとされ、戸隠山、白山とともに、山岳信仰の修験道場として知られました

妙高山の信仰の詳細については、またいつか調べる機会があることを期待して、小菅の参道に妙高山眺望が取り入れられる前、つまり神戸から風切峠を通っての南北ルートからの小菅山の時代に注目することにします。

まず、小菅山について信仰の地としての位置づけを見てみましょう。

小菅山の開山の由来は次のように伝えられています。

役行者(役小角)が仏法を広める場所を求めて諸国を回り戸隠山にいたところ、五色の雲が東山(小菅山)に立ったので、そこに向かって登ると谷で翁と出会います。この翁はこの地主神である飯縄明神であると言い、この地で仏法を広めて欲しいと告げると姿を消しました。すると東の峰に岩窟があったので、役行者がその中で祈っていると小菅権現が現れ、自分は馬頭観音の化身である摩多羅神(またらじん、またらしん、まだらじん)であること、熊野・金峯・白山・山王・立山・走湯・戸隠の七所の神山に来て、神力を助けていると告げました。そこで役行者は小菅権現を主神とし八所大権現を祀りました

摩多羅神である小菅大権現は素戔鳴尊(スサノオノミコト)でもあるとされています。素戔鳴尊から馬頭観音や牛頭天王(ごずてんのう)になっていったようですが、素戔鳴尊の本地は薬師如来だそうです。

・・・まとめたつもりですが、よくわかりませんね。飯縄明神は最初に現れた神様ですので別として、小菅権現と馬頭観音からの話は次のようになります。

摩多羅神=馬頭観音=小菅大権現=素戔鳴尊=薬師如来

どうしてこのように複数の神様仏様が同一に考えられているのでしょうか?

それは、仏教が伝来して、日本にもともとあった信仰(神々)と融合していく過程で、いわゆる神仏習合という考え方が生まれたからのようです。

ウィキペディア「本地垂迹」の記事によると、

「本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。」

「本地垂迹」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』. 2019年6月12日 (水) 10:52 UTC, URL :https://ja.wikipedia.org/wiki/本地垂迹 より引用

さて、妙高山が眺望できるように東西方向を結ぶ参道ができる前は、斑尾山(まだらおさん、まだらおやま、まだらさん)が眺望の中心だったようです。

小菅の奥社からは妙高山がほとんど見えず、眺望は、中央に斑尾山、左に飯縄山、右に黒姫山が並びます。また、神戸から風切峠を通っての南北ルートが奥社につながっていたことも、その当時は妙高山の眺望は考慮されていなかったことを意味しています。

ではなぜ斑尾山が中心だったのでしょうか?

先ほど、小菅神社の由来で、役行者は小菅権現(=摩多羅神)を主神として祀ったということがわかりました。

斑尾山は、摩多羅神(またらじん、またらしん、まだらじん)と同音であり、斑尾山の信仰の対象は薬師如来だそうです。

先ほどの「=」式で見ると、

摩多羅神=薬師如来です。

つまり、小菅山と斑尾山は同じ神様仏様を信仰していることになりますから、小菅山から斑尾山が中央に見えるように構成されていたと考えられているのです。

では、なぜ南北ルートを維持せずに、東西ルートの参道「軸線」から妙高山を望むように変わったのでしょうか?

上杉謙信と景勝にとって大切な場所だった

小菅山は、平安時代後期には、戸隠、飯縄と並ぶ北信濃の3大修験霊場のひとつとして知られるようになっていました。その後、14世紀の南北朝時代の戦乱、15世紀に起きた小笠原持長と泉持重との戦い、そして川中島の戦いの中で、社殿や坊(中世には、上院、中院、下院にそれぞれ10~16の坊があったそうです)は何度も焼失と再建が繰り返されました

こうした状況の中で、小菅とゆかりの深い名将として上杉謙信が挙げられます。謙信は、戸隠・飯縄・小菅を山岳信仰の3山として大切に考えていました

また、小菅には謙信にまつわる「隠れ石」というものがあります。川中島の戦いで不利になった謙信がこの石に隠れていると、信玄が追って来ます。すると突然大岩が崩れ、大木が倒れてきたため、信玄は恐れをなして去っていったと伝えらえています。

kakureishi
隠れ石
「小菅神社(飯山市)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』, CC 表示-継承 3.0, user:KMR, File:P8220524 Kakure-ishi.JPG

永禄4年(1561年)の川中島の戦いで、武田軍によって火がつけられ、元隆寺は本堂以外が全て焼失したと伝えられており、謙信は永禄7年の願文の中で、小菅が退転したと記しています。「退転」とは、壊滅状態という意味で使われているようです。

そのため、上杉家の家督を継ぎ小菅庄の領主となった上杉景勝によって元隆寺の大規模な復興が行われた際に、越後の妙高山を拝するように東西ルートの「軸線」が引かれ、小菅山の新しい構図ができたと考えられています。

ちなみに妙高山はこの軸線からは西側に見え、仏教の西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)のイメージと重なるそうです。

ところで、小菅山の由緒を記録した最古の文献は、天文11年(1542年)の「信濃国高井郡小菅山八所権現井元隆寺由来記」で、この中に神戸口に結界を示す鳥居があったことが書かれています。

前述の「1566年・永禄9年元隆寺絵図」には、「龍光坊」の名と合わせて坊の外観が描かれていますが、鳥居は描かれていません。この絵図の示すものが全て正しいとは考えられていませんが、永禄4年(1561年)の川中島の戦いの前後に、鳥居に代わるものとしてイチョウが植えられた可能性があるかもしれません

「1746年・延享3年元隆寺絵図」の方にはイチョウとみられる大木が描かれているので、1566年頃か、それ以前にイチョウが植えられたとしたら、この絵図の1746年には樹齢が少なくとも180年で、かなりの大木になっていたと考えられます。

また、イチョウが永禄4年(1561年)の川中島の戦いよりずっと前、例えば秋葉三尺坊が8世紀に植えたと仮定してみましょう。小菅山が戦争で何度焼けてもイチョウだけが残っていたとしたら、植えた最初の目的はともかく、後に「火伏の木」として祀られるようになってもおかしくありませんね。

上杉謙信が秋葉三尺坊大権現を祀る秋葉神社を創建したことについては既に述べましたが、上杉謙信の秋葉三尺坊大権現と飯縄権現に対する信仰について触れておきたいと思います。

謙信の兜のひとつの前立てに飯縄権現の像が付いています。

謙信の前立てに限らず、その他の飯縄権現の像や絵には、ある一定の表現形式、つまり飯縄権現であることがわかりやすいような特徴です。嘴(くちばし)と翼があるカラス天狗の姿で、狐に乗っています

そしてこれらの特徴は、秋葉権現(秋葉三尺坊)の像や絵にも見られ、ほとんど区別できないと言われています。

小菅霊場の由来では、役行者の前に最初に現れたのは飯縄明神です。そしてこの地で仏法を広めて欲しいと告げました。役行者は7世紀の人物です。地主神である飯縄明神は、仏様の仮の姿である飯縄権現となり、秋葉権現信仰が広まったのは、16世紀の謙信の時代の頃からのように思われるのですが、どうなのでしょうか?

ちょっと寄り道

「乳イチョウ」は万葉集に出てくる「ちちの木」?

万葉集には「ちちの実」という言葉が含まれた歌が2首あるそうです。この「ちちの実」が付く「ちちの木」が何であるかはまだ解明されていませんが、イヌビワ説とイチョウ説があります

イチョウだとすれば、黄葉の美しさなどを示す歌が他にあってもよさそうですが、奈良時代にも平安時代にもイチョウについての歌がないということから、イチョウはまだ日本に存在していなかったと考えられています

しかし、現在巨木となっているイチョウが平安時代に存在していたとしても、当時はまだ目立つ存在ではなかったはずです。また、イチョウ巨木は近畿地方にはわずかしかなく、都から離れた土地に多いということに注目すると、都の人々はまだ小さかったイチョウの存在を知らなかったという可能性はないでしょうか?

ただし、「ちちの木」がイチョウだと考えることには次の点から無理があります。

まず、イチョウに乳柱ができるということは、木がかなり大きくなった段階のはずなので、平安時代にイチョウが存在していたとしても、乳柱ができるほど大きいイチョウはなかった可能性が高いですし、乳柱のあるイチョウがあったとしたら、そのような奇妙な木に関する記述があってもよいはずです(まだ見つかっていないだけかもしれませんが)。

次に、万葉集で使われている言葉は「実」であって「木」ではないことから、ぎんなんを「ちちの実」とすれば、乳柱に由来する「乳イチョウ」という呼び方との関連性がわかりにくくなってしまいます。

『信濃奇勝録. 巻之5』(井出道貞 等著[他]、井出通、1887年)の神戸の大イチョウの紹介の部分に、次のような説明があります。

「萬葉十九に、知智乃寶乃父能美許等(ちちのみのちちのみこと)とあるを、冠辞考(くわんじこう)に、相模の筥嶺人(はこねのひと)にとひつれば、ちちのみはしらず、ちちの木とは、今いてふといふ木を、これが老いたるは、乳房の如き物の垂るなればいふならん。」

『信濃奇勝録. 巻之5』(井出道貞 等著[他]、井出通、1887年)の神戸の大イチョウの紹介の部分(国立国会図書館デジタルコレクション、000000426723、コマ32) より引用

「ちちのみ」を知らなくても「ちちの木」は知っていたかもしれないと思うのですが・・・

以上のことから、万葉集の「ちちの実」はぎんなんではなさそうですが、奈良時代か平安時代の日本にイチョウが存在していた可能性は残されていると思います。

謎は続く

以上いろいろ調べてみましたが、神戸の大イチョウがいつからそこにあるのかは、謎のままです

植えられた場所が結界の地だったことはわかりましたが、なぜ他の木ではなくイチョウを選んだのかとか、もとになった木をどこから持ってきたのか、どのように持ってきたのかも、わからないままです。

ただ、神戸の大イチョウを見るときは、乳柱がたくさんある巨木だという点にだけ注目するのではなく、小菅山の霊場としての歴史にも思いを馳せたいものです。

神戸の大イチョウへのアクセス

電車とタクシーで

電車での場合は、最寄り駅はJR戸狩野沢温泉駅ですが、そこから5キロ以上離れています。タクシーで約10分。

電車とバスで

飯山駅からだと野沢温泉行き(野沢グランドホテル方面行きのようです)のバスで、神戸入口で下車して徒歩10分だそうです。1日の本数が少ないようなので、時刻表で確認しましょう。戻りは、飯山駅行きのバスになります。

長電(ながでん)バスのサイトでご確認ください。

車で

イチョウの手前に駐車場があります(5台)。

旅のアイデア

旅のプランを練るには、次の2つのサイトがおすすめです。

信州いいやま観光局

飯山市全体の観光情報サイトなので、小菅の里の情報を探す場合は、サイト内検索で「小菅の里」などのキーワードで調べるといいですよ。

おいでなして・KOSUGE

小菅の歴史と文化を大切にする思いが伝わってくる専門サイトです。

樹木の好きな方へ、神戸の大イチョウと合わせて見たい木々の情報です。

  • 小菅神社参道・・・ヤマグワ(別名カラヤマグワ)、イトザクラ(しだれ桜)、それに樹齢300年と言われる杉が180本連なる杉並木、ブナ林。
  • 少し足を延ばして・・・菜の花公園近くの朧月夜の歌碑脇にある松の木:通常の松葉は2本なのに、3本あるそうです。
  • 犬飼神社の神木であるカツラ。
  • 長光寺の大イチョウ。

今回の旅を振り返って

神戸の大イチョウについて、わかったこと、わからなかったことをまとめてみましょう。

樹齢について

秋葉三尺坊が778年生まれなら樹齢1200年以上、13世紀なら、樹齢約820年~720年。

永禄4年(1561年)の川中島の戦いの後に植えられたなら、樹齢約450年。

最終的には不明。

乳の木について

母乳祈願の風習は乳柱ができてから

今は「乳の木」や「乳イチョウ」とは呼ばれていないらしい

祈願の方法は不明

イチョウが選ばれた理由について

不明

イチョウが植えられている場所について

小菅神域の結界であり、南北ルートの入口

三寳大荒神(三宝大荒神)について

小菅山を開山した役行者に由来する三宝と、小菅霊場の由来で役行者の前に最初に現れた飯縄明神と姿が酷似している秋葉三尺坊(秋葉大権現)が火伏の神であること、小菅神社に古くから続いている柱松柴燈神事(はしらまつさいとうしんじ)という火祭りなどが、全て小菅山の信仰の中でつながっていることが、今回の記事を書きながらやっと理解できました。

この記事を読んでいただいてどうもありがとうございました。

 

主な出典(順不同)(本文内に入れたものは省略したものもあります):

  • 『長野県飯山市小菅総合調査報告書-市内遺跡発掘調査報告 第一巻 概要編』,長野県飯山市教育委員会, 2005年
  • 『長野県飯山市小菅総合調査報告書-市内遺跡発掘調査報告 第二巻 調査・研究編』,長野県飯山市教育委員会, 2005年
  • 『文化的景観「小菅の里」』,長野県飯山市教育委員会, 2014年
  • 『小菅修験遺跡2002』, 長野県飯山市教育委員会・長野県飯山建設事務所, 2003年

上記4点の資料は、全国遺跡報告総覧のサイトからダウンロード可能

長野県内の天然記念物一覧(植生)(PDF)

神戸のイチョウ保存会

小菅神社

日本植物生理

法華宗(陣門流)「仏教質問箱」

学会「みんなのひろば植物Q&A」

森と水の郷あきた「樹木シリーズ54イチョウ」

飛不動 龍光山正寶院「やさしい仏教入門」

臼杵市「荒神様」

新熊野神社「熊野信仰」

消防防災博物館「本能寺の火伏せのイチョウ」

仙台市「三宝大荒神のイチョウ」

飯山市「小菅の里及び小菅山の文化的景観が国の重要文化的景観に選定!!」

巨木学

信州遠山郷秘境の旅「秋葉信仰とは」

北信州木島平村「大イチョウ」

栃尾観光協会「秋葉神社と秋葉三尺坊」

秋葉総本殿 可睡齋「由来」

佛心宗 福厳寺「秋葉三尺坊大権現とは?」

秋葉山秋葉寺

福岡市の文化財「櫛田の銀杏」

赤倉温泉観光協会「赤倉温泉の魅力」

新井市・妙高高原町・妙高村 合併協議会だより第16号

飯縄神社

長野市「信州・風林火山」特設サイト川中島の戦い「飯縄大明神(飯縄権現、飯縄山、飯綱山)」

レストラン・バーJAZZY「斑尾山の山名起源と薬師伝説・・・あるじのガイド」

長岡市「謙信公兜の前立」

戦国時代の謎が解明!歴史に隠された黒い噂と黒歴史まとめ「圧巻!!戦国最強の武将、上杉謙信の兜と刀コレクションとは?!」

堀輝三『イチョウの伝来は何時か・・・古典資料からの考察・・・』, Plant Morphology, 13(1)/31-40.2001.ミニレビュー

「行事紹介 秋葉神社祭」,『はつかさん第8号』 , 天津地域振興協議会・総務企画部編集委員会,平成22年6月発行、p.1

『大日本老樹名木誌』 , 本多静六 編,大日本山林会,大正2年、p.110(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)

児島恭子『イチョウ巨樹の乳信仰-歴史研究の資料に関する課題』,札幌学院大学人文学会紀要(2018)第103号73-85

 

参考にさせていただいたサイトや資料の著作権を尊重し、違反しないよう十分注意して書いたつもりですが、もし問題だと思われる部分があればお知らせくださいますよう、お願いいたします。

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