清盛楠~奇しきめぐりあわせ

三重県伊勢市(みえけんいせし)
伊勢神宮外宮(いせじんぐうげくう)の「清盛楠(きよもりぐす)」

樹齢推定1000年。
樹高約10m。幹周約9m。

伊勢神宮外宮の清盛楠
伊勢神宮外宮の清盛楠 (2018年2月撮影 © MY)

出発

皆様、こんにちは。

昨年1月に新潟県弥彦村の蛸ケヤキについて書きました。落葉した枝の魅力を知り、その時から、冬は落葉した木々の枝を見るのが楽しくなったので、今回も落葉した枝の木を選ぼうかと思ったのですが、昨年2月に撮影された楠の写真が気になりました。
落葉していないのは、どうして?
木に詳しい方はわかってらっしゃいますよね。でも私には疑問です。

では、疑問の答えを探しに出発!

クスノキ(楠、樟)は常緑樹

楠が2月でも葉をつけているのは、すばり、常緑樹だからです。冬でも落葉しない常緑樹は針葉樹だと思っていたので、楠のように幅の広い葉をもつ木の中にも常緑樹があるんですね。

楠の他に、針葉樹でない常緑樹にはどんな木があるのでしょうか?

葉の形を思い浮かべやすい木としては、ヒイラギ、榊、ツバキ、ヤツデなど。

茶の木はその名の通り、その葉からお茶が作られるわけですが、茶畑が身近にないとイメージがわかないかもしれませんね。
ちなみに、雪国育ちの私が初めて茶の木を見たのは、皇居東御苑の茶畑でした。

これ以外にも名前は知っていても、どんな木かよく知らなかったり、葉の形が思い出せない木がたくさんありました。オリーブ、ビワ、ナンテン(南天)、サツキ、サザンカ、ツゲ、ユーカリの木、クチナシ、キンモクセイ・・・

針葉樹でない、つまり幅の広い葉を持つ樹木で、落葉しない(常緑)ものは、常緑広葉樹と呼ばれています。全く落葉しないというのではなく、一般的には1年から2年の間に古くなった葉が新しい葉に順番に代わっていくので、冬でも葉が茂っているように見えるんですね。

クスノキは、4月に新芽を出して古い葉は5月頃に紅葉して落葉するので、緑の葉とと赤い葉が一度に楽しめるそうです。この時期に楠を見る機会があったら、是非葉っぱに注目してみてください。

開花時期は5月~6月で、秋になると黒い実をつけるそうですが、花も実も小さいですので、木の下からは見えないかもしれませんが、観察してみたいものです。

クスノキは巨木になる

楠はクスノキ科で、高さは通常15~20メートル
40メートルの大木になるものもあるそうで、また、幹回りでの巨樹のランキングに入っている木の種類では楠の占める割合が高いです。
その中で鹿児島県の蒲生(かもう)の大楠は幹回り24メートル以上で日本一。

清盛楠の樹齢も1000年と推定されていますが、大分県の柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)の楠は樹齢3000年だそうで、楠は長寿の木なんですね。

分布範囲は、本州の関東以西、四国、九州、沖縄、外国では台湾、中国南部、朝鮮、インドシナなどだそうです。もともとは日本に自生しておらず中国からの外来種ではないかとも言われています。

清盛楠の名前の由来

清盛楠の名前の清盛は、平清盛(たいらのきよもり)のことです。また、清盛楠と書いて「きよもりぐす」と読むそうです。

平清盛(1118-1181)は平安時代末期の武将で、武士として初めて太政大臣となりました。娘の徳子を高倉天皇に嫁がせて皇室の外戚となり政権を掌握し平氏の全盛を築きましたが、独裁政治に反発した平氏打倒の戦いが次々と起きる中、熱病で没しました。

ではなぜ清盛楠と呼ばれているのでしょうか?

伊勢神宮のサイトでも紹介されている有名な言い伝えがあります。

清盛が勅使(ちょくし)として伊勢神宮に参向(さんこう)した時に、枝が冠に触れたので、枝を切らせたことからこの名が付いたというものです。

清盛は勅使として伊勢神宮には3回参向したそうで、枝切りがいつ行われたのかまではわかりませんが、太政大臣になった1167年だとしても、今から850年も前にこの楠は既に大きかったのですね!

伊勢神宮の清盛樟
伊勢神宮の清盛樟©MY,2018

勅使:天皇の使者

参向:身分の高い人の所へ行くという意味の他に、勅使参向と言う場合は、勅使が寺社仏閣を訪れるという意味で使われています。

楠を切らせたのは息子の重盛?

清盛楠のエピソードとして、実は楠の枝を切らせたのは清盛ではなく、息子の重盛だったという説もあります。それはどうしてなのか調べてみました。

『宇治山田市史』(上巻・頁828)には、「清盛楠」の部分で、

「平重盛が勅使として参向した時、其の枝が御橋の上までさしかかり冠(或は乗輿)に障るによって枝を伐取らせたので、世人重盛楠と称したのを何時しか清盛楠と誤傳したものを云はれて居る」

と書かれています。

宇治山田市史
国立国会図書館デジタルコレクションより、『宇治山田市史』(上巻・頁828)-コマ478-

『宇治山田市史』の出版年は昭和4年(1929年)なので、それより古い文献を調べてみると、明治30年(1897年)の小川稠吉著『度会郡誌』(頁47)に清盛楠に関する記述があります。

「清盛堤及清盛楠」という見出しにある部分で、

「清盛楠と云うものあり。同し頃、勅使として、参拝せし時、其の枝、冠に障りしを以て、之を伐らしめより、かく名つけたりと云ふ」(原文は漢字カタカナ表記)

つまり、この文書では清盛が枝を切らせたという伝承だけで、重盛については触れられていません。

『伊勢志摩百物語~名木・奇樹を訪ねる~』(皇學館大學伊勢志摩百物語編集員会)の中に収録されている朝倉正樹著「6.清盛楠(伊勢市外宮)」を読むと、重盛説についての更に古い文献として『紀談拾遺』(1759年)があることがわかりました。

この「6.清盛楠(伊勢市外宮)」には、清盛楠が2本に見えることについての考察も述べられていますし、周辺の見どころも紹介されているので、清盛楠を見に行かれる方におすすめです!

さて、『紀談拾遺』(1759年)はインターネットで見つけることができたのですが、草書体のため私にはほとんど解読できませんでした。見出しは「勅使重盛楠樹」となっており、重盛の名前と冠という文字は読めました。
また、「今は宝暦2年(1752年)なので588年のことである」というようなことが書かれているように思われます。1752年から588年前というと1164年ですから、重盛が勅使として伊勢神宮に参向した年ということでしょうか?

『紀談拾遺』は 名古屋大学附属図書館(神宮皇学館文庫)所蔵で、新日本古典書籍総合データベースから閲覧可能ですので、ご興味のある方がいらしたら解読お願いします!

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100172072

6コマ、7コマ

上記「6.清盛楠(伊勢市外宮)」でも紹介されている『伊勢参宮名所図会』も調べてみました。

『伊勢参宮名所図会』は寛政9年(1797年)の塩屋忠兵衛 ほか6名によるもので、小松内大臣である重盛が勅使として参向の時に枝を切らせたものが、誤って清盛楠と言うようになったと書かれています。

『紀談拾遺』では見出しが「勅使重盛楠樹」ですが、その数十年後の『伊勢参宮名所図会』の頃になると清盛楠の名前の方が広まっていたため「清盛楠」にしたと考えられます。

伊勢参宮名所図会5巻四
国立国会図書館デジタルコレクションより、『伊勢参宮名所図会5巻四』、コマ16

年代順にまとめると次のようになります。

  • 『紀談拾遺』(1759年):重盛楠樹(草書体で書かれているため、私にはほとんど読めなかった)
  • 『伊勢参宮名所図会』(1797年):清盛楠-重盛が勅使として参向の時に枝を切らせたものが、誤って清盛楠と呼ばれるようになった
  • 『度会郡誌』(1897年):清盛楠-清盛が枝を切らせたという伝承だけ
  • 『宇治山田市史』(1929年):清盛楠-楠を切らせたのは重盛で、重盛楠と呼ばれていたものがいつしか清盛楠と誤伝された。また、木に障ったのが「冠(或は乗輿)」となっている。

このように18世紀の書物に重盛楠から清盛楠に変わったことが書かれているのは、この楠がその当時から既に有名であったことの証拠ですね。

今はもう昔となった各時代に、この名前の由来を記録しておこう、伝えようと書き記した人々の気遣いがなんだか微笑ましく思えるのは私だけでしょうか。さて、クスノキは漢字で楠または樟と書きます。「樟」の方が正しいのではないかという説もあります。
『日本書紀』の中に「樟木で仏像二躯を造らせた」とあるそうなので、奈良時代は「樟」が使われ、18世紀の『紀談拾遺』でも『伊勢参宮名所図会』でも「楠」の字が使われているので、江戸時代には「楠」が一般的になっていたと言えます。

いずれにしても、「樟」という書き方を知ると、クスノキから作られる樟脳(しょうのう)との関係がなんとなく見えてきそうですね!

樟脳(しょうのう)とカンフル

実家にある着物の入った箪笥(たんす)の引き出しを開けると、まるで時代をさかのぼるかのように日常とは違った匂いが広がりました。この匂いは樟脳(しょうのう)と呼ばれる防虫剤から出ていたものですが、その原料が楠だったとは知りませんでした。

クスノキの語源は、「薬の木」、「臭い木」、「臭(くす)し木」、「奇木(くしきき)」などいろいろあるようです。木の部分だけでなく、葉にも芳香があるとは、香り成分がいっぱいなんですね。

樟脳はクスノキの根や枝を水蒸気蒸留して作った結晶で、カンフルとも呼ばれていますが、クスノキの学名 Cinnamomum camphora からもカンフルの木であることがわかります。

英語ではカンファー・ツリー camphor tree またはカンファー・ウッド camphorwood、フランス語ではカンフリエ camphrier、アルブル・ア・カンフル Arbre à camphreです(注:フランス語発音「R」は便宜上ラリルレロ表記にしてあります)。

つまりクスノキはカンフルの木として西洋でも知られているということです。クスノキはヨーロッパに分布していないのに、なぜ名前だけ定着しているのか不思議ですよね?

コーヒーやバナナのように木が分布しなくても消費だけ拡大したものはたくさんありますから、カンフルだけ伝わったとも考えられますが、まずはカンフルという言葉から調べてみましょう。

カンフルの語源「チョーク」

カンフルの語源は、マレー語 Kapur Barus(「バルスのチョーク」という意味)の Kapurからアラビア語で al kafur、そしてラテン語で camforaとなったとされています。

チョークは教室の黒板に使うチョークをイメージしてしまいがちですが、それは現代の日本では黒板のチョークが身近なものであるためで、もともとチョークという言葉は、石灰岩の一種のことを意味しています。ちなみに石灰岩の主成分は炭酸カルシウムだそうです。

もちろん、最初にカンフルを手に入れた人々もそれが岩石のチョークではないとわかっていたはずですが、白いカンフルを形容するのに一番適した言葉だと判断したのでしょう。

ではBarusというのは何を意味しているのでしょうか?

バルス(Barus)はインドネシアのスマトラ島にあった港町の名前で、かつてはカンフルの売買が行われていました。バルスと言えばカンフルというほど知られていたのです。

日本語サイトで「バルス」で検索すると、ほとんどがラピュタの呪文に関する情報になってしまうので、調べる場合は「バルス、スマトラ」、「バルス、カンフル」など複数キーワードでの検索をおすすめします。

日本の研究者や専門家によるバルスに関する調査は、中国やインドネシアの文献を中心に行われたようなので、このブログではそれらの結果を補完する意味で、フランス語検索で得られた情報を中心にお伝えします。

バルス(Barus)という地名は今でもありますが、当時から現在までずっと同じ場所にあるのかというのは長い間謎につつまれていました。

カンフルの取引で知られたバルスは、2世紀頃には中国とアラブ世界で知られていたそうです。

その後更に広く知られるようになり、Pancur、Fansur 、Barus、中国語では「婆律(P’o-lü)」というように、様々な言語で記述されました。
マレー語 Pancurまたはバタック語のPantsurがアラビア語で Fansurになったものとされていますが、地理的な詳細の記載が少なく、明確な場所はわからなかったのです。

1970年代になって考古学調査が行われ、その後バタック(Batak)王国年代記の内容が知られるようになりました。この年代記では、バルスの最初の王国名は Pancurで、その発祥にまつわる話や中心地が何度か移転したことが示されているそうで、その内容に注目した考古学調査が1990年代から行われています。

詳しく調べたい方への文献情報:

Claude Guillot, Sonny Wibsono, Daniel Perret, Le programme franco-indonésien de recherche archéologique sur Barus, (I. Données et perspectives. In: Archipel, volume 51, 1996. pp. 35-45 

Claude Guillot, Ludvik Klaus, La Stèle funéraire de Hamzah Funsuri, (In: Archipel, volume 60, 2000. L’horizon nousantarien. Mélanges en hommage à Denys Lombard (Volume IV) pp. 3-24 

Jane Drakard, An Indian Ocean Port : Sources for the Earlier History of Barus, In: Archipel, volume 37, 1989. Villes d’Insulinde (II) pp. 53-82

ティーエーエムインターナショナル-スマトラの王国 その歴史と足跡-スマトラ地区の王国・王宮、その歴史と足跡

以上見てきたように、「カンフル」の語源が「チョーク」であり、その取引地バルスはスマトラ島にある地名ということがわかりました。

しかしオリエントやヨーロッパのカンフルの歴史がこれほど古くまで遡れるのに、日本語で「カンフル」、「カンフル剤」、「樟脳」の歴史を調べると、江戸時代中期頃までの説明にしかたどり着きません。日本にはクスノキがあるのにどうしてでしょうか?

バルスのカンフルの木はクスノキではない

バルスのカンフルは樟脳ではなく龍脳で、龍脳はクスノキではなくフタバガキ科の龍脳樹と呼ばれる木からとれるのです。

龍脳樹の分布はスマトラ島、マレー半島、ボルネオ島と、非常に狭い範囲にとどまっています。

日本語では龍脳と樟脳で区別しやすいのですが、龍脳樹もクスノキもなかったヨーロッパでは、中国や日本の樟脳が輸入されるようになってからも、どちらもカンフルと呼ばれ、かなり混乱していた時期があります

バルスのカンフル、つまり龍脳はヨーロッパでどのように使われてきたのか、いつ頃から中国や日本の樟脳が入って混乱していったのか、違いがわかったのはいつ頃なのかなどを調べてみました。

情報収集はフランス語サイトから見つかる資料と文献を対象としました。

中世以前のカンフルの歴史について細かく説明しているサイトや資料は見つからなかったのですが、少しずつ得られた情報を総合してみると、医療用と香料として使われたようです。

中世では、十字軍の遠征(11世紀~13世紀)によって、東方文化がヨーロッパに伝わり、その中に香料や香辛料もありました。カンフルのフレグランスとしての使い方はその頃に伝わったようですし、薬として知られるようになったのが11世紀頃と考えられているので、カンフルは11世紀以降急速にヨーロッパに広まっていったのでしょう

14世紀頃には黒死病(ペスト)対策に使われました。これはカンフルだけを使うというより、その他の香草やお香とともにカンフルも黒死病を避けるために使われ、空気を清浄にしたり瘴気(しょうき)を取り除く効果があると考えられていたようです。

17世紀以降の文献は比較的見つけやすく、カンフルに関する記述も多くなりますが、ほとんどが医学、化学、薬学の分野で扱われています。

19世紀には医学も化学も急速に発達したせいか、文献もたくさん見つかりますし、カンフルの使用方法や効果も詳しく書かれています。

抗炎症作用、鎮静作用、腐敗抑制作用、殺菌作用など、また、特に神経系の病気に効果があるとされていました。

一方で、興奮作用や発汗作用もあると考えられ、適切な使用量を守るようにと注意している著者もいます。

龍脳と樟脳を区別できていなかった時代、内服にも外用にも使われていました。使い方は、カンフルだけ、あるいは他の薬やアルコールなどと混ぜたり、お風呂に入れたり、軟膏にして塗ったりと、目的に応じた様々な調合方法や使い方が試されていました。

眼科では外用で軟膏を使っていたようです。

医療用以外では、花火やワニスなどの製造にも使われ、防虫用としては布の上に置いたりして使っていたようです。また、動物のはく製にも使われたそうですが、これは腐敗抑制作用があると考えられてのことなのでしょう。

これほど用途が多いので、カンフルを万能薬だと考える人が出てきても不思議ではありません。

その代表的な人物は、フランスのフランソワ・ヴァンサン・ラスパイユ(François Vincent Raspail) (1794-1878)です。ラスパイユは医者ではありませんでしたが、カンフルを万能薬と考えて熱心に推奨し、医療目的でのカンフルの様々な使い方や効果を書いた著書が知られています。

当時は、ボルネオやスマトラのカンフルの方が日本や中国のものより優れていると書いている著者が多いのですが、ラスパイユは効き目の強さを重視したのか、強さでは日本のカンフルが最高であると考えていました。日本人が国内で医療用に大量使用するのでヨーロッパへの輸出量が少ないと書いています。

こうして一種のカンフルブームが起きたようで、フローベールの小説「ボヴァリー夫人」(1857年刊行)にカンフルとラスパイユの名前が出てきます。

では、ヨーロッパで龍脳樹とクスノキの違いがはっきりわかるようになったのはいつ頃でしょうか。

中国産のカンフルは17世紀にはヨーロッパに輸出されていたようで、17世紀のフランスの学者や医者たちは、ボルネオ(この頃になるとバルスよりもボルネオの地名が知られていたらしい)のカンフルと中国のカンフルを比較し、その後日本のカンフルもあわせてそれぞれ性質の違いを調べています。

カンフルの性質的な違いとともに、それが採取される木の違いについても注目されるようになりました。

バルスのカンフルの木を詳しく知ることができるようになったのは、自然科学者でもあり医者でもあった人々が現地に行くようになった17世紀末から18世紀にかけてのことだそうです。

そして驚いたことに、日本のクスノキは17世紀にヨーロッパに伝わっていました

詳しくはこのページの「ちょっと寄り道」をご覧ください。

それでもまだボルネオのカンフルの木と日本のクスノキとのはっきりした区別はできていませんでした

ボルネオやスマトラのカンフルの木がDryobalanos aromatica(龍脳樹)で、日本や中国のカンフルの木がLaurus Camphora (Cinnamomum camphora)(クスノキ)であるということが明記されるのは、19世紀になってからです。

ボルネオやスマトラのカンフルが龍脳樹から、日本や中国のカンフルがクスノキからとれるとわかった後も、フランス語で「カンフル」という言葉はそのままでした。

龍脳はボルネオールとも紹介されますが、ボルネオールは比較的新しい言葉のようです。フランス語文献では20世紀より以前のものにはボルネオールという言葉は見つかりませんでした。

ちょっと寄り道

17世紀に日本からヨーロッパに送られたカンフルの木

フランス語の文献をいろいろ調べているうちに、「1674年に日本のエンペラーの医者Guillaume RhineがJacques Breyniusに乾燥したカンフルの木を送った」という記述を見つけ、その内容に驚くと同時に信ぴょう性を疑いました。

この時代の天皇に外国人の医者がいたとは思えなかったですし、ある程度調べてみても、Jacques Breyniusの名前は見つかるのにGuillaume Rhineの名前はこのエピソード以外では見つからず、19世紀以降の文献にも手掛かりとなる情報がなかったので、調べるのをやめました。

ところが偶然にも次に進める糸口が見つかりました。Guillaume Rhineはフランス風に変化した名前で、オランダ名がWillem ten Rhijneであることがわかったのです。しかも日本語ではウィルレム(またはウィレム)・テン・ライネというカタカナ表記でいろいろ紹介されているではないですか!
フランス語の文献で「エンペラー」と書いてあるのは、「将軍」徳川家綱のことだということもわかりました。

ウィルレム・テン・ライネが送った日本のカンフルの木を受け取ったジャック・ブリュニウスJacques Breynius (またはBreyn)は、現在のポーランドに位置すると思われるDantzigという町の生まれの裕福な植物愛好家で、オランダで学んだ後、オランダで様々な植物を栽培したり収集していたそうで、植物史とも呼べる本を著しています。
ウィルレム・テン・ライネとの関係はよくわかりませんが、この著書の中にテン・ライネがお茶の歴史について寄稿しているようなので、二人は知り合いだったことがわかります。

また、ドイツ人エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)の著書の中に日本のカンフルの木の絵があったという記述もありました。17世紀には日本のクスノキの情報がヨーロッパに伝わり、ジャック・ブリュニウスを始め、日本のカンフルの木について研究する人が何人かはいたのです

ウィルレム・テン・ライネは日本からカンフルの木を送ったようですが、その後は日本から直接送られたどうかは明らかでないものの、カンフルの木が何度かオランダに送られて、オランダやドイツで植えられて育っていたという記述があります。
「カンフルの木」という呼び方だけなので、それがクスノキかどうかはわかりませんが、ウィルレム・テン・ライネが送ったものと、エンゲルベルト・ケンペルが描いた絵はクスノキだったと言えるのではないでしょうか。

日本における龍脳と樟脳

以上見てきたように、ヨーロッパではカンフルという名前で龍脳が使われてきたので、カンフルの歴史を古くまで遡ることができます。日本の場合は、龍脳と樟脳を区別して調べるといろいろなことがわかります。

龍脳は、医療目的だけでなく香料としてアラブ世界でも西洋でも使われてきたように、日本でも仏教伝来の頃に大陸から薫物(たきもの)に使う香料として伝わり僧や貴族の間で親しまれたのです。

日本薬史学会発行の『薬史学雑誌』Vol.46, No.2」(2011)に収録されている服部昭著「家庭用樟脳発売の端緒」によれば、 日本で樟脳の結晶の生産が始まったのは16世紀末から17世紀初めとのことなので、ヨーロッパに輸出されるようになったのはその後ということになります。

また、日本では精製技術がまだ発達しておらず、粗製樟脳をオランダに輸出して精製をオランダで行い、逆輸入していたそうです。
オランダが17世紀のヨーロッパでのカンフル精製の中心地だったことは、フランスの文献でも確認できます。フランスでは精製が始まりつつある段階で、採算面でオランダにはかなわなかったようです。

ちなみにフランスやドイツで精製が始まったのは18世紀中頃ではないかと思われます。

フランスでは17世紀頃から「カンフルはできるだけ白く、混入物のないものを選ぶとよい」と考えられていたようなので、オランダでは白いカンフルに仕上げる技術が進んでいたのでしょう。

「家庭用樟脳発売の端緒」では、粗製樟脳の主な産地として、薩摩、土佐、日向、肥後が挙げられています。そのうち薩摩はフランスの文献にも時々登場し、それ以外には五島列島の記述も見られます。

鎖国中の江戸時代に樟脳がこれほど海外に輸出されていたとは意外でした。

クスノキの植樹

中国や日本のクスノキCinnamomum Camphoraが十分に知られるようになった19世紀からは、東南アジアだけでなく、マダガスカル島やブラジル、地中海地域など各地で植樹が行われました。

造林のためや観賞用に導入される一方、カンフルがセルロイドに使用されるようになって需要が大きく増加したことや日本の専売による供給不足などから、樟脳を採取するために各地で植樹され、アメリカや当時のソ連でもクスノキが植えられたそうです。また、合成カンフルの製造研究に力が入れられました。

しかしクスノキの葉から樟脳を得ることはできず、木を伐採して得るには樹齢50年以上にならないと十分な量が得られないことなどから、松から得られるテレビン油を使った合成品が主流になっていったのです。

それとは別にクスノキは、生育可能な地域では庭や街路樹として植えられるようになりました。

フランスに関して調べると、その当時植えられたものかわかりませんが、南仏アンティーブの植物園にクスノキがあることがわかりました。他の場所にもあるようですが、詳しい情報は得られませんでした。

18世紀頃まで謎に包まれていたクスノキですが、今ではフランスでも簡単に買うことができます。

日本でも樟脳の輸出が盛んだった頃はクスノキの大量伐採が問題になり、各地で植樹が行われたそうです。

木材としてのクスノキ

さて、ここでクスノキを木材として見てみましょう。樟脳よりも古くから人々に使われてきたのではないでしょうか?

満久崇麿(まくたかまろ)『仏典の中の樹木 : その性質と意義(3)(護摩の樹木) 』(1974)によると、日本に仏像が伝えられたのは6世紀と言われ、法隆寺の観世音菩薩立像や百済観音立像など、飛鳥時代は仏像に使う木はクスノキだったそうです。著者は、仏像は塗箔、乾漆なので、芳香性が理由というよりも、クスノキが身近にあって使いやすかったからだろうと推測しています。

また、『日本書紀』の中に樟木(クスノキ)で仏像を作ったという話があることがわかりました。仏像にはクスノキ、という決まり事のようなものがあったのかもしれません。

クスノキはその香りと防虫効果のため、家具類にも利用されてきました。他には、社寺建築、船、彫刻、楽器、器具、箱、木魚、仏具、玩具などにも使われるそうです。木魚に使われるのは、クスノキの香りも好まれてのことでしょうか?

木材利用ではありませんが、クスノキは防音効果があるそうで、街路樹として選ばれることも多いとのことですが、大木になることを考慮しておかないといけないですね。

龍脳樹とクスノキ

龍脳樹とクスノキについてまとめると次のようになります。

  • 樟脳=d-カンフル、クスノキCinnamomum camphora 、Laurus camphoraクスノキ科の樹木
  • 龍脳=d-ボルネオール、龍脳樹Dryobalanops (aromaticaなど) フタバガキ科の樹木

龍脳樹は、現在の日本で木材として紹介されている場合は、カプール、カポールと呼ばれています

龍脳樹は、現在の日本で木材として紹介されている場合は、カプール、カポールと呼ばれています

カンフルの語源になったマレー語の(Kapur)、つまり「チョーク」を意味する言葉が、木材用語で使われているとは驚きですが、カンフルの語源が、現地では最初から龍脳樹をカプールと呼んでいたのなら当然のことなのかもしれません。
このKapurという言葉はDryobalanopsの一般名として英語やフランス語のサイトでも見られるので、今では西洋でも龍脳樹(カプール)とクスノキ(カンフルツリー)で、はっきり区別されているということですね。

伊勢神宮と樹木

さて、今回は清盛楠ということで、その名前の由来やクスノキについて調べてきましたが、清盛楠のある伊勢神宮の建築に使われている木は何でしょうか?

これはヒノキだそうです。

伊勢神宮には、式年遷宮(しきねんせんぐう)と呼ばれる伝統があります。20年ごとに社殿を新しく造って神様にお遷りいただくお祭りだそうで、ヒノキを確保するために宮域林(きゅういきりん)(神宮林とも呼ばれる)と呼ばれる森があります。
鎌倉時代からヒノキが不足し他の地域から調達しているとのことですが、大正時代からの森林計画のおかげで、前回の式年遷宮では宮域林のヒノキも使えたそうです。
これからも宮域林のヒノキが大きく育っていきますように!

この宮域林にはヒノキだけでなくクスノキも含め、様々な樹木が植えられているそうです。

旅のアイデア

伊勢神宮
伊勢神宮©KYH,2011

自然豊かな伊勢神宮はゆっくりと訪れたい場所です。
伊勢神宮の公式サイトではモデルコースや四季折々の植物や動物が紹介されています。

今回の旅を振り返って

伊勢神宮の清盛楠から始まって、スマトラ島のバルスでのカンフル貿易や、中世の黒死病(ペスト)、ボヴァリー夫人にまで話が展開するとは思ってもみませんでした。

龍脳と樟脳が区別されてきた日本。
清盛の時代は薫物で衣服に香りをつけていたそうですが、もし龍脳も香りに使っていて伊勢神宮の楠の前を通りかかったとすれば、不思議な組み合わせですね。

クスノキは広島に原爆が投下された後に残っていたことから、広島市の木になっています。
そのためフランス語のサイトでクスノキについて調べると、この話が紹介されていることが多いです。


この記事を読んでいただいてどうもありがとうございました。

主な出典(順不同)
(本文内に入れたものは省略してあります):

伊勢神宮

伊勢志摩国立公園 横山ビジターセンター-神様の森づくり

森林・林業学習館-樟・楠

森林・林業学習館-常緑樹がいつも緑を保っている理由

樹木図鑑-クスノキ-楠、樟

教室博日記No.1429, 2016/04/06クスノキ

平塚市博物館-春の落ち葉

社会実情データ図録-日本の巨樹ランキング

木net-木材の種類と特性-クスノキ、樟

広島大学デジタル自然史博物館-植物-クスノキ科

かぎけん花図鑑-クスノキ(楠)

朝倉正樹「6.清盛楠(伊勢市外宮)」『伊勢志摩百物語~名木・奇樹を訪ねる~』,皇學館大學伊勢志摩百物語編集員会, p.12-13

小・中学生のための学習教材の部屋-知識の泉-社会の部屋-歴史人物いちらん-平清盛

コトバンク-平清盛

巨樹・古木探訪-清盛楠

奈良県ようこそ-日本書紀めぐり旅-県民だより奈良 平成28年12月号

服部昭「家庭用樟脳発売の端緒」『薬史学雑誌』Vol.46, No.2, 2011 (PDF)

中西啓『長崎医学の百年、第一章西洋医学伝来、第ニ節出島のオランダ商館医』,1961, 長崎大学学術研究成果リポジトリ

OFFICIAL WEBSITE FORESTRY DEPARTMENT PENINSULAR MALAYSIA

Larousse-Encyclopédie-les croisades

Saint Martin de la Brasque – 1348 La peste noire dans notre région

François-Vincent Raspail, Manuel annuaire de la santé ou médecine et pharmacie domestique, 1847, p.72

Jean-François HUTIN, Raspail, Don Quichotte du camphre ! (PDF)

Tissot P., La culture du Camphrier et la production du camphre, In: Revue de botanique appliquée et d’agriculture coloniale, 15ᵉ année, bulletin n°165, mai 1935. pp. 340-350

INRA Science & Impact – Bienvenue sur le site du Jardin botanique Thuret

Gloubik Sciences- Le Camphrier du Japon

Biographie universelle, ancienne et moderne, ouvrage rédigé par une société de gens de lettres et de savants, tome cinquième, 1854, p571-572

Jean Philippe Graffenauer, Traité sur le camphre, 1803, p.10-p.12, p.61

Nouveaux mémoires de l’Académie royale des sciences et belles-lettres, imprimé chez Georges Jacques Decker, imprimeur du roi, 1786, p.80-81

参考にさせていただいたサイトの著作権を尊重し、違反しないよう十分注意して書いたつもりですが、もし問題だと思われる部分があればお知らせくださいますよう、お願いいたします。

珠洲市の倒さスギと八百比丘尼

石川県珠洲市(いしかわけんすずし)

「倒さスギ(さかさすぎ)」

県指定天然記念物
樹齢:700年~900年
樹高約12m。幹周約6.74m。
枝の広がり30m。

珠洲市の倒さスギ
珠洲市の倒さスギ(2017年8月撮影©MY)

出発

皆様こんにちは。

今回は能登半島珠洲(すず)市の倒さスギ(さかさすぎ)に注目したいと思います。杉というと、なんとなく林のようにまとまって生えている杉林をイメージしてしまうのですが、石川県珠洲市の倒さスギは、そんなイメージを覆してくれる独特の風景の中に私たちを連れて行ってくれます。
では出発!

独特の風景と形

倒さ杉遠景
倒さスギ遠景(2017年8月撮影©KY)

この倒さスギ、田んぼの真ん中にあるんですよ。目立ちますよね!

説明版によると樹齢は約850年だそうで、ネットで見つかる情報では700年~900年とばらつきがありますが、鎌倉時代から存在していたと考えるだけで、その歴史の長さに圧倒されます。

幹回り約6.74メートル、高さ12メートル、そしてなんと枝の広がりが30メートルにもなるそうです。もしかすると上に伸びずに下の方に広がっていったからこそ、この枝ぶりになったのかもしれないですね。

なぜ「倒さスギ」?

「さかさ」の漢字が「逆さ」でなく、「倒さ」になっているので、最初は読み方がわかりませんでした。それと、この木を実際に見ても、なぜ「さかさ」なのか全くわからない私。

説明版によると「すべての枝が下方に垂れ、地面につくものものある。こうした樹形はまことに珍しくみごとであり、この名の由来があると思われる」。

実際は、上の方の枝は普通に伸びているように見えますが、地面を這うように伸びている枝から力強さや雄大さを感じます。自然が作り上げたひとつの芸術作品。

周辺の広々とした田園風景と枝の広がりが非常にバランスよくマッチしていて、清々しい気持ちになります。

実は他にもある逆さ杉

倒さ杉といった名がついている木は他にもあるのかと思って調べてみたところ、逆さ杉と呼ばれるスギは全国に何本もあることがわかりました。例えば栃木県の塩原八幡宮境内にある逆さ杉。これは樹齢が1500年と更に古い木ですが、ネットで公開されている写真では地面に這うような枝はないようですが、2本並んで根元がひとつになっていて「夫婦杉」とも呼ばれています。

福島県玉川村にある川辺八幡神社の逆さ杉も樹齢1000年という古木。栃木県の塩原八幡宮の逆さ杉と同様、高く伸びているので、一口に「逆さ杉」と言ってもいろいろな形があり、それぞれに個性があります。

珠洲市の倒さスギにまつわる伝説

珠洲市の倒さスギには、八百比丘尼が昼食に使った杉箸を地面に刺したものが大きくなったという言い伝えがあります。

八百比丘尼ですが、読み方は「やおびくに」と「はっぴゃくびくに」の2通りあるようですね。

珠洲市役所のサイトからの引用です:

「この杉の周辺は、かつて高照寺の境内で、中世の頃は、七堂伽藍を擁した霊場であったという。それにまつわる伝説がある。若狭の八百比丘尼(はっぴゃくびくに)が能登行脚の途中、眼病を患ったので、高照寺の薬師如来に祈願をし、千万遍の念仏を唱えることで、病は快癒した。境内でお昼を食べ、杉の箸を地面に刺したところ、枝葉が伸びだしたが、刺した方向が逆さまだったので、逆さに生えてしまったのだという。」(CC BY珠洲市役所)

八百比丘尼についての伝説は土地によって違いはあるものの、人魚の肉だと知らずに食べてしまった娘(または妻)が、ずっと若い姿のまま(不老不死)になってしまったことに苦しみ、諸国行脚の旅に出て人々を助けた、という話は多くの伝承で共通しているようです。故郷の若狭(福井県)に戻り洞穴に入って亡くなったとのことで、福井県小浜市には八百比丘尼の入定洞(にゅうじょうどう)があることがわかりました。

長野県戸隠神社の三本杉にまつわる言い伝えは、人魚の肉を食べたことと八百比丘という名前は共通していますが、登場人物や木の発生の仕方が異なります。この伝説での八百比丘は、主人公の漁師が出家してからの名前で、八百比丘尼という女性は登場しません。

いろいろ調べているうちに、比丘(びく)と比丘尼(びくに)というのは、戒名や法名と呼ばれる出家後の個人名ではなく(例えば僧なら空海、尼僧なら天璋院)、比丘は僧、比丘尼は尼僧のことだとわかりました。八百比丘尼の場合だと、八百が個人名ということでしょうか?白比丘尼という名前で紹介されている場合もありますが、それならなぜ八百と白になってしまったのか謎が残ります。

それにしてもなぜ伝説で人魚の肉なのか・・・人魚と言えば、私は小川未明の童話『赤い蝋燭と人魚』に親しんでいたので、八百比丘尼の伝説で人魚が肉として食されてしまう存在としてのみ登場させられてしまっているところに驚愕しました。。。

さて、この伝説にもある高照寺(高勝寺という表記もある)に関しては、高野山真言宗であること以外の情報はほとんど見つからず、八百比丘尼が祈願したとされる薬師如来のことなどはわかりませんでした。

倒さスギは境内の外にあり、地面に伸びた杉の枝の近くに小さな祠はありますが、私などは近くにお寺があることさえ気がつかなったぐらいです。ただ、杉の近くにあった石碑から少しだけ情報を得ることができました。

倒さ杉の石碑
倒さ杉の石碑(2017年8月撮影©KY)

江戸時代の記録

この石碑は、文章全部は読みとれないのですので、倒さスギの近くの石碑ということで検索してみたところ、珠洲市の市議会だより(平成29年11月1日発行No.6)に写真とともに説明がありました。

それによると、この石碑は太田道兼の歌碑で、歌は「三輪ならで ここにもありや一本の 杉のみどりの志るしさかえて」だそうです。

三輪というのは、神の山として信仰されている奈良県の三輪山のことで、杉や松などの大木があり、特に杉は神聖なものとして考えられているそうです。

太田道兼は江戸中期・田沼意次時代の官吏で、諱(いみな)を頼資といい、『能登名跡誌』の著者(著者名は太田頼資の方で記録されている)だそうで、その抜粋から、高照寺は七堂伽藍の大きなお寺であったこと、その当時から倒さスギは一本杉であったこと、そして八百比丘尼(原文では八百比丘尼ではなく百比丘尼)の箸の伝説が伝わっていたこともわかりました。『能登名跡誌』は、1931年と1970年にも出版されたようで、専門家の間ではよく知られた本なのかもしれません。

ちなみに歌碑の設置は1988年(昭和63年)とのことです。

杉について

さて、杉と言うと、とても身近にあって、どこでも見かけるような気がしますが、杉を見ないで思い出してみようとすると、私の場合は、漠然としか頭に浮かびません。比較的イメージしやすいのが、スギ花粉が飛んでいる様子とか・・・

スギは日本固有の樹木で、地域によって様々な品種(地域品種)に分類されているようです。例えば屋久島の屋久杉は、本やテレビなどで写真や画像を見たことがありますよね。驚いたことに、杉は日本で一番高く成長する木で、大きいものは50メートル以上になるそうです。そして樹齢2000年から3000年までとされる杉が全国各地にあるそうなんです。

加工しやすく成長も早いことから、木材としての杉の利用が始まったのは縄文時代にまで遡るそうで、建築材から船や酒樽まで幅広く日本の生活に使われてきたんですね。

この加工のしやすさですが、のこぎりも無かったような時代でも、木目に沿って割ることができたからなんだそうです。なるほど!

ところで杉はまっすぐだというイメージがありますよね。まっすぐな「直(す)ぐ木」ということから「スギ」と呼ばれるようになったという説明をいろいろなサイトで見かけました。

こうした杉の一般的な特徴からすると、「倒さスギ」は意表を突く場所に1本だけで、しかも独特の形で、本当に特異な存在です。

箸の材料

八百比丘尼は杉で作られた箸を地面に刺したのですが、箸の材料になる木の種類は杉が多いのでしょうか?

八百比丘尼の言い伝えは鎌倉時代から室町時代にかけて広がったと考えられているようです。

一方、箸が7世紀に遣隋使によって中国から日本に伝えられ、一般に普及していったのは、平安後期から鎌倉時代にかけてとされているので、八百比丘尼の時代には箸が日本人の生活に浸透していたと言えます。特に、鎌倉時代には、箸と併用されていた匙が使われなくなり、箸だけを用いるようになったという点も興味深いですね。

素材に関しては、箸が伝えられた当初は竹が主流であり、木製の場合は、竹以外では、ひのき、柳、松、萩などが使われ、杉は吉野の後醍醐天皇(14世紀)が献上された杉箸を喜んだという言い伝えがあり、ちょうど八百比丘尼の伝説が広まった頃にあたります。

調べていくと、八百比丘尼だけでなく、高僧や歴史上の人物が使った箸を地面に立てたところ大木になったという言い伝えはいくつもあり、それは「箸立て伝説」と呼ばれていることがわかりました。

箸立て伝説とは?

なぜ箸を地面に立てるのでしょうか?箸に使った人の魂が乗りうつると考えられ、使用した後で折って捨てている習慣があったことや、もともと箸は祭礼に使われ、神とつながりをもつものであったことなど、地面に立てることで神の依り代としたのではないかと考えられるようです。

八百比丘尼の場合は、眼病が治るように高勝寺の薬師如来への祈願したいうことになっています。柳田国男の『日本の伝説』の中に「御箸成長」という見出しがあり、全国で知られている「箸立て伝説」を伝えているほか、お祭りの祈りに木の串または枝を土にさす習慣があったことや、新しい箸をけずって祭りの食事を神と共にする習慣があったという説明もあります。つまり、お弁当の箸とは言っても、神仏と食事した時に使った箸に祈りを込めて地面に箸を立てたとも考えられます。

『日本の伝説』の中では、八百比丘尼は白比丘尼という名前で紹介されていますが、それによると、珠洲の逆さ杉だけでなく、白比丘尼は諸国巡りで杖や椿の小枝をさしてそれが大木になったものがいくつもあるとのことで、その他の情報からも、八百比丘尼の伝説は非常に多くのパターンがあり、植樹によるものもたくさんあることがわかりました。八百比丘尼は特に白椿を好んだとされています。

地面に這うような形

日本海側に分布する杉はウラスギ、太平洋側に分布する杉はオモテスギとして区分され、遺伝的にも異なるものだそうです。また、ウラスギは雪の重みによって枝がたわみ、地面に付いた部分から根が出て株になる(伏条更新)ことがあるとのことで、この特徴を持つものとして、富山県入善市の杉沢の沢スギが知られています。珠洲市の倒さスギの枝の中には、完全に地面に接している部分もありますが、そこから根が出ているようには見えませんでしたし、新しい株ではなく、あくまでも枝のまま地面に近いところでくねくね曲がっているとしか言いようがありません。枝が下に向かって曲がった理由は何でしょうか?枝の太さからすると、雪の重みによるものとは思えないのですが・・・不思議な現象、水田が描く海原のような広々とした場所にポツンと見える船か島のような姿、八百比丘尼の伝説と言い、そこだけ非日常の時間が流れているかのようです。

旅のアイデア

珠洲に行くなら「見附島(別名:軍艦島)」もおすすめスポットです。倒さスギも独特の景観を作り出していますが、この見附島も一度見たら忘れられない風景のひとつになること間違いなしです。

見附島
見附島(軍艦島)(2017年8月撮影©KY)

今回の旅を振り返って

倒さスギにまつわる伝説から、木にまつわる伝説は非常に多種多様で、それは世界中に見られる人間と木との関係であることがわかりました。人間の木に対する想像力とはなんと豊かなことでしょうか。木は、草花のように四季の移り変わりによって咲いたり枯れたりせず、たとえ落葉樹であっても一年を通じて、そして長い年月を経ても風景の中にいつも存在しているもので、人間にとって一番身近に感じられる植物なのかもしれませんね。

木を見るということは、その木を見た昔の人々も、その木を見るであろう未来の人々とも何かつながっているような気がしてきます。

この記事を読んでいただいてどうもありがとうございました。

主な出典(順不同)(本文内に入れたものは省略してあります):

ええやん!若狭の國・若狭おばま観光協会
戸隠神社
日本植物生理学会-みんなのひろば-植物Q&A
にゅうぜんマニア・入善町観光物産協会
農林水産省-特集2お箸のはなし(1)
すず観光ナビネット
とちぎ旅ネット-逆杉
福島民報~年輪刻んで~ふくしまの名木
石川県-倒スギ
ふくいドットコム-八百比丘尼入定洞
三輪明神大神(おおみわ)神社-三輪山
みんなの趣味の園芸NHK出版-スギ
森林・林業学習館
樹木図鑑
材木育種センター『材木遺伝資源情報第10号-5(2006.9)』(PDF)
木材博物館
柳田国男『日本の伝説』(青空文庫)
藤原繁『箸の文化と割箸の歴史地理:奈良吉野下市の割箸を主として』(PDF)
九頭見和夫『日本の「人魚」伝説-「八百比丘尼伝説」を中心として-』(PDF)
向井由紀子、橋本慶子、長谷川千鶴『わが国における食事用の二本箸の起源と割箸について』(国立国会図書館デジタルコレクション、ファイル名:ART0001973969.pdf)

「お宮の松」に見る熱海の今昔と将来

静岡県熱海市(しずおかけんあたみし)

「お宮の松」

お宮の松
熱海のお宮の松(2016年2月撮影©MY)

出発

皆様こんにちは。

だんだん木々の芽が膨らんできたように見えるこの頃です。

父から送ってもらった写真の中には、弥彦の蛸ケヤキを超えられる落葉樹のものがなかったので、撮影時期が1月から3月までという基準にして選んだのが「熱海のお宮の松」の写真です。

『お正月の門松』でも書いたように松は常緑樹なので落葉しないですが、枝の形を鑑賞できる木ですよね。

さて、今回はどんな旅になることでしょうか。出発!

 

どうして「お宮の松」という名前が?

ネットで調べれば理由はすぐにわかりますが、まず、お宮というのは明治時代の尾崎紅葉(おざきこうよう)の小説『金色夜叉(こんじきやしゃ)』のヒロインの名前です。物語の中で、主人公である寛一(かんいち)との別れのシーンの舞台が熱海海岸なのだそうです。

この小説のために松を植えたわけではなく、小説ができる以前に松があり、美しいことから「羽衣の松」と呼ばれていたのだそうです。

金色夜叉の人気とともに舞台となった熱海が有名になり、「金色夜叉の碑」が「羽衣の松」の近くに作られたりして、次第に「お宮の松」と呼ばれるようになったとのことです。

美しいことから「羽衣の松」と呼ばれると言われても、羽衣というものが何であるかよくわかりません。「羽衣の松」という名で有名なのは、同じ静岡県内の「三保(みほ)の松原」ですが、これについてはまた別の機会に調べてみようと思います。

現在の松は2代目で、初代の松は、江戸時代に老中の松平信綱(まつだいらのぶつな)が植えさせた松の1本と言われているそうです。松平信綱は伊豆守(いずのかみ)という官位を与えられていて、「知恵伊豆」とも呼ばれ、伊豆巡視の際にこの地に松を植えさせたとのことです。

「金色夜叉の碑」は、尾崎紅葉を師とする小栗風葉(おぐりふうよう)の金色夜叉の句が書かれたもので、お宮の松の近くには、初代お宮の松の切り株、館野弘青(たてのこうせい)作「貫一お宮の像」もあります。この像は、熱海海岸で貫一がお宮を足蹴にする有名なシーンが再現されたものです。

貫一お宮の像
熱海市フォトライブラリーより-貫一お宮の像

金色夜叉の碑
紅葉山人記念・金色夜叉の碑
(2016年2月撮影©MY)

と言っても、私は『金色夜叉』という題名とこの名場面ぐらいしか知らなかったので、近年この足蹴シーンの像に対して様々な意見が出されて、説明版が加えられたりすることによって、小説を知るきっかけになっていいのではないでしょうか。

先日古い外国映画を観ていたら、エレベーターの中でタバコを吸っているシーンがあって驚きましたが、生活スタイルや社会の価値観の移り変わりってこんなものですよね。

尾崎紅葉の金色夜叉は未完だったので、小栗風葉が続編として「後の金色夜叉」という小説を書いたそうですし、金色夜叉は歌も作られ、何度も舞台化や映画化されて、長く人々に親しまれてきたということがわかりました。

ところで夜叉ってなんでしょうか?

もともとはインドの半神半鬼で、仏教では仏法を守る八部衆(8対1組の神)の1柱だそうですが、金色夜叉ではそうした仏法を守る神という意味では使われていないようです。これ以上の情報は簡単には見つかりそうもなかったので、夜叉についてはこのくらいにして、他に気になる点から「お宮の松」の旅を続けることにします。

 

初代のお宮の松について

松が2代目になったのは、初代の松が、キティ台風によるダメージや、車の衝突、排気ガスなどによって枯れてきたからだそうです。

キティ台風:1949年に関東地方に上陸し大災害を引き起こした。

1958年(昭和33年)に撮影された写真を見ると、初代は道路の真ん中にあり、両側にバスや車が走っているという、まさに交通事故の危険と排気ガスに常にさらされている状態です。

初代のお宮の松があった場所に記念プレートが埋められていますが、道路の真ん中ですから写真を撮るのも大変ではないでしょうか?

初代お宮の松は、展示されている切り株のほかに、1968年に貫一とお宮を模したこけしが作られました。現存するのは13対で(全部で何対作られたかは情報なし)、2014年に、1対がそれまで所有していた小学校から熱海の起雲閣(きうんかく)に寄贈されたそうです。

2代目登場の話は、熱海市のホームページに詳しく書かれています。

 

2代目お宮の松にまつわる話が面白い

熱海市のホームページで閲覧できるのは、2代目が植えられて2年目の1968年に「東海民報」に10回連載された記事です。

熱海市ホームページ『新 お宮の松誕生記』

2代目の松を見つけるまでの苦労や、盛大に行われた植樹祭(誕生祭)の記念行事の様子など、いろいろなエピソードが、筆者のユーモアあふれる文体で生き生きと伝えられていますので、是非読んでみてくださいね。

私が特に注目した点のひとつは、2代目が計画されたときに、初代お宮の松を擬人化して、2代目の登場を人々に知らせるという演出方法です。筆者はこれを「松に独白させた」と呼んでいますが、こういった方法だと、より一層お宮の松に親しみを覚えますよね。

もうひとつは、お宮の松の両脇に植えられたという木の話です。最初に2代目お宮の松の候補になった松は輸送の難しさから断念されたのですが、同じ敷地にあった桜を筆者がとても気に入ったことから、その桜だけでなく梅まで一緒に寄付してもらえて、2代目お宮の松の両脇に植えたのだそうです。しかもそれだけではありません。お宮の松には「添え松」も欲しいとのことで、「添え松」1本も植えられたのです。このエピソードも面白いですよ。

ただ、この桜(寒緋桜のようです)、梅、添え松は今はお宮の松の近くにないようですが、どうなのでしょうか?「お宮の松」がある場所は、平成13年(2001年)3月に土壌改良と排水工事等が完了して現在のようになったそうで、これ以前に撮影されたと思われる写真では、貫一・お宮の像が松の向かって左側にある(現在は向かって右側)ので、この工事の時に移転されたのかもしれないですね。

また、初代お宮の松には「のこ入れ式」が執り行われて、お経があげられ、2代目の根の下に、初代の枝と『金色夜叉』の初版が埋められたそうです。植樹祭がお披露目式というだけでなく、初代と2代目の2本の松に対する人々の敬意が込められた式典だったんですね。

あれこれネットで調べているうちに見つかった情報と写真によると、2代目お宮の松も20年ほど前に衰弱が目立つようになったらしく、世代交代の時と同様の「独白」形式で、その状況を人々に知らせる看板が立ったようです。

 

「お宮の松」はクロマツ

「お宮の松」の名前の由来や、木の歴史については、今まで書いたように情報が入手しやすいのですが、樹木としての情報が見つからず困っていたところ、説明版の画像を見つけました。この説明版によると種類はクロマツです。

初代のお宮の松の樹齢が300年以上、2代目の最初の候補となった松の樹齢も300年ぐらいとのことですが、2代目は2001年に約95年となっていますから、2018年で約112年ですね。ちなみに、2代目は、当時の熱海ホテル庭園内にあったものだそうです。

 

クロマツと海岸の松林

『お正月の門松』でアカマツは山林に、クロマツは海岸沿いに多いということを知ったのですが、では、なぜクロマツは海辺でよく生育するのでしょうか?

調べていくうちに、クロマツは海岸でよく生育するという考え方よりも、クロマツは海岸の条件に適した木であることから、日本ではクロマツが海岸に植えられてきたという歴史に注目すべきだということがわかりました。

防風林や砂防林として、防災の機能が果たせる木として、日本の海岸に植えられてきたのです。

でも、クロマツの自生林がなかったわけではありません。クロマツはもともと海岸部に自生していたと考えられており、皇居前に約2000本あるクロマツは、植栽によって今のような風景になっていますが、江戸城ができる前は一帯が入り江になっていて、そこにクロマツが自生していたのだそうです。

海岸部に自生している木ということでクロマツが植栽のために選ばれたのかというと、そうでもないようです。

財団法人日本緑化センターの『日本の松原物語-海岸林の過去・現在・未来を考える』(平成21年8月)には、江戸時代の海岸砂防植栽の全国的な実施状況が一覧表で紹介されていますが、それを見ると、松以外にも、杉、雑木、柳、ネムノキ、グミなども植栽されたことがわかります。

この一覧表には、植栽を企画・実施した人の名前と職業も記載されています。藩の命令によるものだけでなく、個人で実現したものも数多く、自費を投じて実施したケースや、植栽の方法を工夫して松林造成の成功に至った経緯など、貴重な記録もあります。

クロマツ以外では、ネムノキとアキグミを除いては成功例がほとんどないため、最終的にクロマツが植栽する木として一般化していったことが明らかにされています。

松原の植栽の歴史からすると、日本書紀にも植栽や飛砂防備林に関する記述があるようですが、特に江戸時代になってから海岸砂丘地に砂防林として松原の造成が行われました。それには当時、飛砂害(ひさがい)が深刻になっていたという背景があります。

クロマツが海岸に適している理由をまとめてみました:

  • 常緑針葉樹は、落葉広葉樹より乾燥に耐える性質が強い。
  • 成長が早い。主軸は1年に70センチ伸びる。
  • 塩の害に強い。葉の内部構造が水溶性物質の流動を抑え、海水の塩分が入らないようにする。葉が細いので、風に運ばれてくる砂が地面に落ちやすい。
  • 地中深くまで根が伸び、大きく広がる。
  • 全体が傘を広げたような形になり、日光を受けやすい。
  • 葉は2枚または1枚(クロマツという分類が更に下位に分類できるようです)。

海岸の松林は第二次世界大戦中に荒廃し、飛砂害が深刻化したため、戦後になって砂防植林が全国的な事業としてすすめられたおかげで、1960年代末頃に現在の海岸林の状態ができあがったそうですが、問題はその後も続いています。

クロマツ海岸林も植林しただけでは十分に維持できず、過剰な密集、病虫害、広葉樹林の侵入など様々な問題への対策が必要であることがわかりました。

広葉樹は海岸には適さないはずなのに、なぜ侵入できるのでしょうか?それは、クロマツが増えることによって松林の内陸側が肥沃になるからだそうです。

松林が衰退する原因や状況に合わせ、各地で海岸防災林再生の活動が行われています。

ところで「お宮の松」は松林の中にありませんよね。周辺はどうなっているのでしょうか?

 

お宮の松のある場所「お宮緑地」

お宮の松があるのは、熱海海岸の中でも、国道とサンビーチに挟まれた「お宮緑地」と呼ばれる緑地ゾーンで、松林ではありません。

この「お宮緑地」が完成するまではどうだったのでしょうか?

「お宮の松」は初代の頃から1本だけで、周りに松林はなかったようです。

江戸時代に盛んだった松林造成は、熱海でも行われたのでしょうか?

はっきりした答えが見つからないので、当時の風景画を調べてみました。

1681年(天和元)年に描かれた『豆州熱海絵図』は、熱海を詳細に描いていますが、残念ながら海岸の様子がよくわかりません。ただ、岩が突き出した部分はリアルに描かれているので、あいまいな部分は砂浜ということだと思います。そこに木はありません。

また、他の絵や写真を見ても、松林は見つかりませんでした。

名勝八景 熱海夕照
国立国会図書館デジタルコレクションより-
豊国作
『名勝八景 熱海夕照』
制作年不詳

日本名勝旧蹟産業写真集
国立国会図書館デジタルコレクションより-
西田繁造編
『日本名勝旧蹟産業写真集-奥羽・中部地方之部』
大正7年出版

ところが、『金色夜叉』の挿絵のひとつに松林が描かれているものがありました。(著作権フリーの画像がなかったので『港区ゆかりの人物データベース』というサイトからご覧ください)

尾崎紅葉と交流の深かった武内桂舟(たけうちけいしゅう)の作品ですが、貫一の後ろに松林が描かれています。でも・・・

松林の根が波をかぶりそうなぐらい、海と松林が近すぎて、なんとなく現実味に欠けるような。。。まあ、挿絵なので物語の中での熱海海岸なのかもしれません。

明治時代の絵師・山本光一の作品に熱海海岸部が描かれているものがいくつかありますが、松は点在するような感じで、初代お宮の松が1本だけそこにあったとしても不思議ではない風景です。

熱海市ホームページ(山本光一『熱海八景』の掲載ページ)

個人的な推測ですが、熱海では松林を造成する必要がなかったのではないでしょうか。江戸時代の松の植栽の目的が防砂林としての利用であれば、飛砂の害がない場所では、多くのお金や労力をかけて松林を作らなくていいわけです。

熱海は小さな湾のような形で山に囲まれているという地形的条件によって、強風から守られて飛砂の害がなかったのかもしれません。

熱海には砂浜がなく、岩場だけだったからというのも考えられますが、明治時代には砂浜が広がっていたと書いている資料もあるので、砂浜はあったけれども、松林なしで大丈夫だったので作らなかったのではないかと勝手に想像します。

また、昭和に入って海岸線の埋め立てが進められて、現在は全て人工砂浜だそうです。

お宮緑地には、2014年(平成26年)に「ジャカランダ遊歩道」が完成して、お宮の松とジャカランダ並木のコラボにヤシの木もミックスされた、オリジナリティ溢れるエリアになっています。

お宮の松の独白という手法といい、熱海市は町の雰囲気を盛り上げる演出が上手ですねえ。

ジャカランダの紫色の花が咲く6月にフェスティバルも開催されます。

ジャカランダ:南米産のノウゼンカズラ科の木で、紫色の花をつける。

ジャカランダ遊歩道
熱海市フォトライブラリーより-
ジャカランダ遊歩道

『金色夜叉』の方は、貫一・お宮の別れのシーンが1月17日の月の夜だったことから、1月17日に「尾崎紅葉筆塚祭」と「尾崎紅葉祭」が開催されます。

「湯宿一番地」敷地内にある筆塚には、尾崎紅葉が生前使用していた筆が祀られているそうです。

 

ちょっと寄り道

熱海では、お宮の松のように日本の伝統的な木の姿を描いているものもあれば、異国情緒の溢れるヤシの木も並んでいます。

熱海のヤシの木
熱海のヤシの木
(2016年2月撮影©MY)

父が送ってくれたヤシ並木の写真です。これだけ見ると、ハワイ?

ヤシにもいろいろな種類があるはずなので、これはどの種類なのか・・・「背の高いヤシの木」で検索していったところ、「ワシントンヤシモドキ」という種類のようです。

それにしても背が高い!

熱海市の木は熱海桜(アタミザクラ)、熱海市の花は梅ですが、熱海桜は寒緋桜(カンヒザクラ)と山桜(ヤマザクラ)の交配種だそうです。1871年(明治4年)頃イタリア人によって、レモン・ナツメヤシとともに熱海にもたらされた品種ということですが、開花時期が1月、開花期間が1か月と、驚かされることばかりです。

梅の方はどうかと言えば、人気スポットである熱海梅園が1886年(明治19年)に開園しているので、市の木と花に選ばれているのも納得できます。

ちなみに熱海の梅も日本一早咲きらしいですよ。もしかして今が見ごろでしょうか?

多種多様な木と花が溢れる熱海で、松は少数派のようです。貴重な「お宮の松」はエキゾチックな木や草花に囲まれて、熱海の有名な景観を作り出しているんですね。

 

お宮の松と熱海の移り変わり

お正月の門松』で、門松では松は歳神様の依代、『まさに「けやけき木」、弥彦の「蛸ケヤキ」』で、高砂神社の相生の霊松(あいおいのれいまつ)は尉(じょう)と姥(うば)の2神(イザナギとイザナミと考えられている)、というように、松と神様の結びつきを知ったのですが、「お宮の松」は松との接し方が全く異なります。

「お宮の松」は、『金色夜叉』という小説の人気と熱海の大衆観光化の中でこの名前が付いたのですから、もし海岸にあった木が松でなかったとしても「お宮の・・・」と名前が付いていたのかもしれません。

また、2代目を見つけるという過程においては、神秘性は必要なく、見た目の素晴らしさが一番重要であると同時に、輸送で困らない場所にあるというのも選択基準となっていました。

さて、熱海は『金色夜叉』によって一般大衆の人気観光地となりましたが、ここで忘れてはいけない熱海の特徴と言えば温泉ですよね!

熱海の温泉としての最古の記録は鎌倉時代に遡るそうですが、大きな発展は、徳川家康が熱海の温泉を気に入ったことに始まるそうです。その後、温泉の名所として知られていきますが、交通が不便だったこともあり、『金色夜叉』の書かれた時代には、皇族、政治家や文化人といった一部の人々の保養地だったのです。一般大衆の温泉観光地となったのは、丹那(たんな)トンネルの開通(1934年)によってアクセスが良くなってからだそうです。

その後の熱海は、バブル崩壊後(1990年代)から衰退し続けた後、最近ではその危機を乗り越えてV字回復していると言われています。実際はどうなのかまだわからないと思いますが、2010年頃から町の現状チェックに基づく活性化計画・都市計画を作って、それを推進している点では、かつての受動的な変貌から脱け出して、主体的な展開に変わったようです。それには温泉の町という熱海の原点がベースになっています。

『金色夜叉』も、主人公の生きた時代は今では遠い昔のことですが、お金と恋愛というテーマによって時代を超えて親しまれる(小説を読まなくても・・・!)物語です。つまりその部分は変わらないので、登場人物の服装や持ち物を変えるだけで現代版が作れるという普遍性がありますよね。

こうして貫一とお宮の世界は、温泉街の発展と衰退、そして再興という流れと一体化して、時間とともに発展しているような感じがしないでしょうか。

松が代替わりしても、周辺の海岸風景や町がどんどん変わっていっても、「お宮の松」は、熱海の温泉地としての歴史や文化を伝えていく、温泉観光地である熱海の地域アイデンティティーの象徴のように見えます。

熱海港
熱海港(2016年2月撮影©MY)

 

旅のアイデア

熱海温泉や海とは逆方向になりますが、熱海市内に巨樹があることがわかりました。

來宮神社(きのみやじんじゃ)の「大楠」です。
樹齢がなんと2000年以上!太さが全国2位。
しかも2本もあるんですよ。そのうちの1本が御神木になっています。

国の天然記念物に指定されていますが、名称は、「阿豆佐和気神社(あずさわけじんじゃのおおくす)の大クス」となっているので、データベースではこの名称で検索するといいですよ。

熱海の樹木でもう1本気になるのが、伊豆山神社(いずさんじんじゃ)の神木「梛(ナギ)の木」です。
この神社は源頼朝と北条政子の逢瀬の場だったそうで、政子は梛の葉に二人の名前を刻んで手鏡の下に置いて祈っていたと伝えられています。
鎌倉時代幕開けの主人公夫婦にこんなエピソードがあったなんて、微笑ましいですね。

また、アカオハーブ&ローズガーデンには世界最大の盆栽があるそうです。

 

今回の旅を振り返って

私は2013年に熱海に1泊したことがありますが、熱海城に行った後で雨に降られてしまったので、「お宮の松」は見に行きませんでした。今回この松について調べることになり、そこから早咲きの梅や桜、來宮神社や伊豆山神社のことも知ることができました。

熱海は駅も2016年にリニューアルされて、これからも新しい空間や建物の占める割合が増えていくようですが、そうした変化の中で、歴史のある「お宮の松」の果たす役割は益々大きくなっていくことでしょう。

熱海のことをほとんど知らない人間が、熱海についてあれやこれや書いて申し訳ないですが、益々魅力を増して発展していくことを期待しています!

実際にまた旅をする機会があったら、「お宮の松」も含めて、前回見れなかった場所や新しくできたものを見に行きたいと思います。

熱海城
熱海城(2016年2月撮影©MY)

この記事を読んでいただいてどうもありがとうございました。

 

主な出典(順不同)(本文内に入れたものは省略してあります):

熱海市ホームページ・あたみニュース
SPinfo
ぶらっと旅へ
あたみのまんなか
木の情報発信基地
みんカラ
森林・林業学習館
マツはなぜ海岸に多いのか
中島勇喜『森林の力が暮らしを守る。海辺の最前線に生きる、海岸林の可能性』
環境省・皇居外苑・クロマツ
多摩森林科学館
熱帯植物館
静岡・浜松・伊豆情報局
文化庁・国指定文化財等データベース
都道府県市町村シンボル
熱海まち歩きガイドの会『あたみ桜と河津桜は、どう違うの?』
熱海ネット新聞2014年4月19日記事
熱海ネット新聞2016年1月17日記事
熱海市建設部まちづくり課都市デザイン室『熱海まちづくりビジョン』
国土技術政策総合研究所『第 1 章 海岸管理の歴史的変遷』
太田猛彦『海岸林形成の歴史』
梅津勘『樹木医学の基礎講座 海岸林講座第1回:日本の海岸林の成り立ちと推移-庄内海岸林を中心に─』
法政大学大学院デザイン工学研究科紀要Vol.3(2014年3月)駒井穂乃美『地形から読み解く熱海温泉の空間構造』

 

まさに「けやけき木」、弥彦の「蛸ケヤキ」

新潟県 弥彦村 (にいがたけん やひこむら)
弥彦神社の末社 住吉神社(すみよしじんじゃ)
「蛸(たこ)ケヤキ」

県指定天然記念物
樹齢800年以上とされる(資料によっては1000年以上)。
樹高約30m。幹周約8m。

蛸ケヤキ
弥彦神社の末社住吉神社の蛸ケヤキ(2016年11月撮影©MY)

出発

皆様、こんにちは。

2018年が皆様にとって良い1年になりますようお祈りいたします。

さて、父から送ってもらった木の写真の中から、今回は冬の季節に合った写真を選びました。

新潟県西蒲原郡弥彦村(にしかんばらぐんやひこむら)にある
弥彦(彌彦)神社の末社(まっしゃ)のひとつ住吉神社の蛸ケヤキです。

11月の撮影で葉が落ちているので、ケヤキが落葉樹だということがわかりやすくていいかもしれません。

鳥居が前にあるので、ケヤキ自体が神社なのかな?と思わせる、不思議な構図だと思いませんか?

では、1本の木から始まる発見の旅へ、出発!

 

ケヤキってよく聞くけど、どんな木なのか知らない

落葉樹だということは写真でわかりましたが、幹や葉を見てケヤキだとわかる特徴はあるのでしょうか?

小豆島・宝生院のシンパク(イブキ)のように針葉樹だと葉の識別さえ難しいですが、広葉樹なら葉は観察しやすいはず。ただし形が似ている葉を持っている木は多いんじゃないかな?なとど思っていると、素晴らしい検索サイトを発見!「樹木検索図鑑」(企画:千葉県立中央博物館、製作:斎木健一氏、天野誠氏、ビジオ氏)。名前が既にわかっているので、ケヤキの特徴を調べるのに使わせていただきました。

分布情報、材木としての利用、名前の由来など、他のサイトも参照してまとめてみました。

名前:ケヤキ(欅)Zelkova serrata
別名:ツキ(槻)
分類:ニレ科ケヤキ属
平均的な高さ:20メートル~30メートル。
分布分布範囲が狭い。東アジアの一部、日本の本州、四国、九州の丘陵地帯や山地に自生。

:長細い楕円形で先がとがっていて、葉の周りがギザギザしている。
長さが3~14センチと、葉によってかなり違うらしい。色は明る目の緑(写真で見た感じ)。
真ん中に太い葉脈1本あり、そこから外側に向かって太めの葉脈がいくつも均一に並んでいる。
また、葉はざらざらしているので、乾燥させて紙ヤスリの代わりに使えるそうです。

樹皮:これにはビックリ!若い木と樹齢の進んだ木では、全然違う木のように見える。若い木の樹皮はグレーのような色合いで、でこぼこした黒っぽい横線のようなものがたくさんある(皮目というそうです)。
樹齢が進んだ木は、樹皮がボロボロと剥がれている。剥がれていって、最後はどうなるのでしょうか?

:雌雄同株(しゆうどうしゅ)と言って、雌花と雄花が同じ株につくもの。「株」は、ケヤキの場合は木なので、1本の木に雌花と雄花がつくということだと思う。開花時期は4月~5月。

:そう果(薄くて皮に種が包まれている)。5mm位の偏球形で枝ともに落ちる。
果期:10月頃。

木材として
重硬で、強い。建築、家具、太鼓の胴、臼・杵、彫刻など、用途が広い。
色は、オレンジ系または黄色系で明るく薄い色、磨くと光沢が出る。
木によって木目模様に大きな個性が出る。

「ケヤキ」の名前の由来
「けやけき木」、「目立つ、ひときわ優れている、顕著な木」という意味とのこと。
「ツキ(槻)」の方は、別名というより、万葉集では「ツキ」が使われていて、「ケヤキ」の方がその後に発生したようです。「ツキ」は木が強靭なことから「強木」が由来になっているそうです。

見られる場所

  • 神社やお寺、都市でも並木として植えられている。
    東京都の明治神宮表参道のケヤキ並木、東京都府中市の馬場大門のケヤキ並木(大國魂神社おおくにたまじんじゃの参道)、埼玉県のさいたま市から所沢市までの国道463号のケヤキ並木、宮城県仙台市定禅寺通り(じょうぜんじどおり)のケヤキ並木など。
  • 線路を守るための鉄道林として鉄道沿線に植えられていることがある。
  • 清水寺の舞台の柱に使われている。
  • 耐久力があり、音の反響がよく、また木目が美しいので和太鼓の胴の部分に使われる。
  • 昔は電柱に使われていた。

 

なぜ「蛸ケヤキ」という名前なの?

大枝が伸びて広がり大蛸の八本足のように見えることから、この名がついたそうです。

ただ、老木で枝が弱ってしまったため、何本か切られて、今は大枝は5本ぐらいのようですが、このように大きな枝が何本もある木は、他の角度から見ると、ずいぶん雰囲気が違います。鳥居の斜め後ろの方から見るとこんな感じです。

弥彦の蛸ケヤキB
別の角度から見た蛸ケヤキ(2016年11月撮影©MY)

中太の枝は切られてしまったのでしょうか、太い枝からいきなり細い枝になっているようにも見え、非常に個性的な形です。個人的には、現代アート風に鑑賞したいような気もします・・・鳥居や祠が写っている部分を加工するのは恐れ多いので、木の部分だけモノクロにみました。

弥彦の蛸ケヤキblack1
弥彦の蛸ケヤキblack1

弥彦の蛸ケヤキblack2
弥彦の蛸ケヤキblack2

弥彦の蛸ケヤキblack3
弥彦の蛸ケヤキblack3

他のサイトでは葉が茂っている時期の写真も見られるので、比べると面白いですよ。

 

「蛸ケヤキ」と神社の関係

さて、「蛸ケヤキ」はアーティスティックな形もさることながら、最初に書いたように、鳥居の奥に木があるという不思議な配置で、まるでこのケヤキのために神社が作られたような印象を受けます。

ちなみに、神社の名前は住吉神社で、弥彦神社(彌彦神社)の末社(まっしゃ)ということなのですが、末社とは何でしょうか?

神社本庁のサイトによると、神社の境内にある小さな社で本社の管理下にある神社を摂社(せっしゃ)または末社(まっしゃ)と呼ぶそうで、戦前は御祭神や由緒によって摂社と末社を区別基準があったとのことです。
現在は、祀られている場所が境内地内か境内地内かで摂社と末社を区分することもできるそうです。詳しくは神社本庁の神社のいろはのページ-境内の小さな神社について-でご確認ください。

弥彦神社には境内の中に摂社と末社があり、外にも住吉神社を含めて複数の末社があるので、大きな神社の構成の仕方を学びやすいと言えるかもしれません。

たしかに、神社の中に小さい神社があるのって割とよく見かけますね。そこで思い出したのが京都の清水寺。こちらはお寺なのに本堂のすぐ近くに地主神社がありますよね。

このように複数の神仏を一つの敷地内にお祀りする構成というのは日本独自のものなのでしょうか。

キリスト教のカトリックの教会の中には、主祭壇のほかに複数の祭壇があって、それぞれ異なった聖人に捧げられていることがあります。聖人には守護聖人という概念や信仰があって、健康(治癒)、職業、地域などを守ってくれるということなのですが、日本の神社やお寺にそれぞれのご利益を願ってお参りする感覚に似ているように思います。

さて、「蛸ケヤキ」と住吉神社の関係がまだわかりません。この住吉神社は、突然の水難からの加護を願い住吉三神が祀られているとのことです。

「蛸」、「水」、「神様」・・・なんとなくつながってきたような気もします。住吉三神について調べてみましょう。

 

住吉三神は海の神様

調べた結果をまとめると次のようになります。

・住吉三神(すみよしさんしん)。住吉大神(すみよしおおかみ)とも呼ばれる:底筒男命(ソコツツノオノミコト)、中筒男命(ナカツツノオノミコト)、表筒男命(ウワツツノオノミコト)の総称。

表筒男命は上筒男命の表記もある。

 日本神話では、住吉三神は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が黄泉国から帰って海に入って禊(みそぎ)を行った時に海中で生まれた。

住吉神社は全国に約2300社あり、その総本社は大阪の住吉大社です。地名も大阪市住吉区住吉!

蛸ケヤキのある住吉神社の御祭神(ごさいじん)は住吉三神ですが、大阪の住吉大社では住吉三神のほかに神功皇后(じんぐうこうごう)も御祭神として祀られています。

従って、大阪の住吉大社の神様についての情報を調べるときは、この点に注意する必要があります。

大阪の住吉大社の神様:

禊の神・航海安全の神:住吉大神は禊のときに海中で生まれたことから。

和歌の神:住吉大神が現れて和歌を通じて託宣(たくせん)するという話がいくつもあることから。和歌によく出てくる(歌枕)「すみのえ」というのは住吉の昔の名前で、「住江」や「墨江」などの書き方になっていったようですね。

農耕・産業の神:住吉大神が草を敷かずに苗代を作る方法を教えたことから農耕の神となったそうです。でも「草を敷かずに苗代を作る」という意味がよくわかりません。
他のサイトをいろいろ見てみると、播磨国風土記の記述に由来していることがわかりました。
播磨国風土記の話:現在の兵庫県加西市河内の里に住吉大神が訪れ、神様の食事の時に村人が集めていた草を敷き詰めました。しかしこの草を苗代に使うつもりだった所有者が困ってしまい、それを神様に伝えました。すると神様は、ここでは草を敷かなくても苗が育つと言って、その通りになったそうなのです。それまでは苗代に草を敷いていたんですね。

弓の神:神功皇后の新羅出兵(三韓征伐さんかんせいばつ)の話と、神功皇后が大阪の住吉大社に警護のために土師弓部(はじのゆみべ)16人を置いたことがもとになっているようですが、土師弓部とは何かはわかりませんでした。土師(はじ)氏の弓の担当部署?

相撲の神:かつての住吉大社年中行事に由来しているようです。

最初は海の神・禊の神として信仰の対象となって、その後、和歌の神などとしても祀られるようになったと考えていいようですね。

ちなみに神功皇后は、小豆島・宝生院のシンパクを植えたとされる応神天皇の母で、九州を中心に数多くの伝説が伝わっているそうです。

なお、三神の名前-底筒男命(ソコツツノオノミコト)、中筒男命(ナカツツノオノミコト)、表筒男命(ウワツツノオノミコト)-の最初の漢字「底」、「中」、「表(または上)」は、それぞれの神が生まれた海の深さのことを示しているのだそうです。つまり底筒男命(ソコツツノオノミコト)は海底で生まれたということですね。

名前の2番目の漢字「筒」については、原見敬二著『古事記に見る海事思想』(PDF)では、「ツツ」は「ツチ」のことで、「ツ」は助詞、「チ」は尊称であることの他に、有力な2つの説が挙げられています。1つ目は「筒」は船の中央に立てる柱のこと。2つ目は、「筒」は「星(ツツ)」のことで、底・中・上はオリオン座を代表する3つの星で、それが航海の指標として使われていたそうです。

弥彦の蛸ケヤキのある住吉神社は御祭神は、水難から守ってくれる住吉三神をお祀りしているので、住吉三神の「水」に関する面との関連性をもう少し探究してみようと思います。

『新潟県:歴史・観光・見所』というサイトの「弥彦の蛸ケヤキ」のページで、「欅の幹を取り囲むように玉垣が設けられている事からも欅自身が神格化され信仰の対象になっていたと思われます。」とあります。

水難から守るというのは、航海や漁での安全ということのほかに、海だけでなく川や湖なども含めての水辺でのあらゆる事故から守るということかもしれません。

人々はケヤキの形に大蛸のイメージを重ね、海の主であるかのような蛸の前に祠を建てて海の神様のご加護を願ったのではないかと考えます。

弥彦に蛸にまつわる伝説がないかどうか調べてみましたが、見つかりませんでした。

 

明訓校の校内にあった祠(ほこら)

祠は、明訓校の校内に建立されてから校内神社となっており、明治28年(1895年)に廃校になった際に、住吉神社の氏子有志が譲り受けて今の場所に移したと伝えられています。

校内に祠を建立するというのは、今では考えられないと思うのですが、どういった経緯でそうなったのでしょうか?

新潟県立文書館のサイトに貴重な情報が公開されています。初代校長は国学者の大橋一蔵(おおはしいちぞう)氏で、なんと明訓校は弥彦神社禰宜(ねぎ)鈴木家の土蔵を校舎としてスタートしたそうです。禰宜というのは神職のひとつのようですね。

開校が明治13年(1880年)で、3年後の明治16年に弥彦神社北東に洋風建築の校舎ができ、現在は校舎はなく石碑があるそうです。

つまり明訓校は弥彦神社の一角にあったようなものなのですね。

明訓校は後に県立校となり、財政悪化による廃校と再開を経て、生徒数減少によって最終的に廃校になってしまったわけですが、「明訓」の名は新潟夜間中学校、続いて野球強豪校である新潟明訓高等学校に引き継がれ現在に至っています。

注:出典は、新潟県立文書館のサイトの中の越後佐渡ヒストリア『第29話~来たれ!生徒諸君~弥彦の明訓学校』のページですが、リンクURLが長いので、新潟県立文書館のトップページのURLのリンクを貼っておきます。

更に調べていくと、現在の新潟明訓高等学校も弥彦神社とつながりがあることがわかりました。

昭和27年(1952年)に世界平和を祈って弥彦神社と新潟明訓高等学校とが学校林設定契約を結び、弥彦神社が所有する山林に生徒たちがアカマツ約9000本を植樹したそうです。
このアカマツの育成と保護は神社と学校が協力して行い、2002年に伐採して神社と学校が受け取る内容の契約だったようですが、その後の情報が得られませんでした。

ただ、弥彦の丘美術館の入口すぐ近くに「新潟明訓高等学校学校林」という標柱があるそうなので、伐採はされておらず、保護が続けられているように思われます。

弥彦神社と明訓は学校の組織が変わっても、強いつながりを持ち続け、そこに「蛸ケヤキ」や「学校林」という「木」が存在していることに不思議な縁が感じられます。

 

ちょっと寄り道

前回の記事「お正月の門松」で、兵庫県高砂市(たかさごし)の高砂神社の相生の霊松(あいおいのれいまつ)について調べました。
この松は一つの根から雌松(アカマツ)と雄松(クロマツ)の幹が出て、尉と姥の2神が現れて夫婦の在り方を示すためこの松に宿ると告げたことから、この呼び名がついたそうです。

能の演目『高砂』では、播磨国(兵庫県)高砂にある高砂の松と摂津国(大阪府)の住吉にある住の江の松とが一つの根から成っている相生の松であり、主人公は高砂から住吉へ向かい、そこで住吉明神が現れて平和な世を祝福します。

 

弥彦村は木の好きな人にぴったりの場所

蛸ケヤキは昭和27年(1952年)から県指定天然記念物に指定されていますが、『弥彦村』のサイトによると、弥彦には他にも県指定天然記念物の「弥彦の婆々スギ」や「弥彦参道スギ並木」というのがあるそうです。

「木を見て森を見ず」ではないですが、蛸ケヤキやその他の天然記念物だけでなく、弥彦村全体について見てみましょう。

弥彦村は樹木に覆われた弥彦山(634m)の麓にあり、自然に恵まれた土地なのですね。11月には新潟県森林まつりも開催されます。

弥彦神社も森の中にある感じですし、近くに城山森林公園という樹木の宝庫のような場所もあります。

実は私も弥彦神社に行ったことがあるのですが、雨がかなり降っていたので、ゆっくり散策することができず、蛸ケヤキがあることにも気が付きませんでした。

でも木の存在感がとても感じられる場所でした。たくさんあるからというだけでなく、それぞれの木に個性があって、それが雨という天の恵みを受けて新鮮な緑の呼吸をしているような感じでした。森林浴というのはこういうことなのでしょうか。

弥彦神社で見かけた木の根
弥彦神社で見かけた木の根(2009年8月撮影©KY)

また、この記事では写真を掲載できませんでしたが、境内にある御神木は椎の木で、弥彦村のサイトによると「御祭神が携えられた椎の杖を地中に挿され、この地が自分の住むべき土地ならば繁茂せよ、と仰せられたところ、芽を出し根をはり、たちまち大木になったと伝えられています。」とのことです。

弥彦神社(通称:おやひこさま)の御祭神は天照大御神(アマテラスオオミカミ)の御曾孫にあたる天香山命(アメノカゴヤマノミコト)で、神武天皇から越後国の開拓の命を受けて、海水から塩をつくる技術、漁業、稲作、酒造りなどを住民に教えたとされています。

弥彦神社の玉の橋
弥彦神社:神様が通る橋、玉の橋(2009年8月撮影©KY)

神武天皇は日本の初代天皇とされる人物なので、住吉大神や神功皇后(第14代天皇である仲哀天皇の皇后)の時代より更に古い時代のことですね。
宮内庁の天皇系図によると、神武天皇の在位は紀元前660年から紀元前585年です。
紀元前660というと縄文時代ですよね?

そんな太古の時代にまで遡る歴史のある弥彦。かわいい鹿もいるので、また行きたい場所です。

弥彦神社の鹿
弥彦神社の鹿(2009年8月撮影©KY)

 

今回の旅を振り返って

これまでの記事もそうでしたが、木について調べているのに、どんどんと神話の方に話が進んでいってしまいます。調べるのがかなり大変です。
こんなことになるとは全く思ってもみませんでした。神話や伝説なので、いろいろな説があり、調べた結果をどのようにまとめていったらいいのか悩みます。

でも、今までは神社にお参りに行っても、御祭神について考えたこともほとんどなかったので、また新しい視点から見れるようになりました。

「蛸ケヤキ」は、落葉した時期だと葉の様子がわからなくなってしまいますが、蛸の足のように広がった枝を見るにはいいですね。

全国にある様々な大ケヤキの写真もネットで見ましたが、それぞれ幹や枝ぶりが個性的で、確かに落葉した時にこそ、その持ち味が目立つ、「けやけき木」が名前の由来だというのがよくわかりました。

もしかして父はそれで11月に蛸ケヤキを見に行ったのかも?

それにしても、木に海の動物の姿を見出す人間の想像力ってすごいなと思いました。

夜になって風が吹いたりすると、枝がざわめいたりして、その独特のシルエットが更に大きな存在感と迫力を見せるんでしょうね。

この記事を読んでいただいてどうもありがとうございました。

主な出典(順不同)(本文内に入れたものは省略してあります)

弥彦浪漫パワースポット
植木図鑑ウィキペディア
木材図鑑
森林・林業学習館
清水寺よだん堂
太鼓の里・新・浅野
月刊杉WEB版
全国有名仏壇店ネット
日本木材総合情報センター
新潟県都市緑化センター
人文研究見聞録
住吉大社
住吉大社吉祥殿
銕仙会
文化デジタルライブラリー
the能com
月刊京都史跡散策会第38号
大阪市立図書館
古代の加西と播磨国風土記(PDFのリンクが貼れないようですが、かさい観光の資料のようです)

 

お正月の門松

門松が気になって調べてみた

皆さん、こんにちは。

2回目の記事を書いている途中で年末になってしまいました。。。
「もういくつ寝るとお正月~」と歌いたくなる時期、やはりお正月に関係のある木の方がいいのでは?と迷い始め、どうしても門松のことが気になったので、予定を変更して2回目は門松について調べることにしました。

門松は1本の木ではないのでブログのタイトルから外れますが、1つのことからいろんなことを見つけていくのが目的なので、楽しい旅になると思いますよ。

では、門松から始まる発見の旅へ、出発!

 

門松という名前なのに、なぜか竹をイメージしてしまう

お正月と聞いてすぐに連想できる門松ですが、実際にはあまり見かけないように思います。鏡餅や注連飾り(しめかざり)と違い、屋外に飾る大きなもので、適切な場所がなかったり運んだりするのが大変だからかもしれませんね。

門松と言う名前なのに思い浮かぶものは竹。あれ、松はどこ?と思ったら、松も使われていますが、少し脇役っぽい。どういうことなんでしょうか?

それはどうも私が東日本の出身だからのようです。門松の仕上げ方は、大きく分類して関東風と関西風があり、関東風は竹が長く松は短く下の方に集まって竹を支えているような感じですが、関西風だと竹と松が同じぐらいの高さに揃えられていることがわかりました。

年賀状や広告などのイラストでは関東風の竹が長い門松が描かれていることが多いのではないでしょうか。それで門松と聞くと竹の方を先にイメージしてしまうのかもしれません。

ところで門松は何のためにあるのでしょうか?

 

門松は歳神様(としがみさま)をお迎えするためのもの

ネットで検索して見つかる一般的な説明は、「門松は歳神様(年神様)を迎えるために、歳神様が家を見つけやすくなるように目印として立て」、「迎えた歳神様(年神様)の依代(よりしろ)とする」というものです。依代というのは神霊が宿る場所のことだそうです。

 

歳神様について

歳神様とはどういう神様かと調べたら、「その年の幸せをもたらしてくれる神様」、「穀物の神様」、「ご先祖様」、「大年神(おおとしのかみ)」といろいろな説明がありました。

「穀物の神様」とするのには、本居宣長による「登志とは穀のことなり」という言葉がいろいろなサイトで引用されています(穀は特に稲のことを示すそうです)。この原文を確認することができませんが、本居宣長の時代には大飢饉や浅間山の大噴火など厳しい条件の中で米は尊いものであったと考えられています。

「ご先祖様(祖霊)」のことという見方は、柳田國男の説が挙げられています。これについての他の複数の参考文献の内容を総合してみると次のようになります。

古来より、春になると山から里に下り、秋になると山に戻るという田の神去来伝承というものがあったが、土地によっては山の神と田の神が同一視されるようになることもあった。また、他の神々も存在することがあった。しかし本来は家ごとまたは一門ごとの神(氏神)で、子孫の田の仕事を守るために存在していると信じられていたからではないかというものです。また、お正月とお盆の行事の類似性から田の神は祖先神であろうと考えたとしている著者もいます。

更に、『門松のはなし』の中で折口信夫は「日本には、古く、年の暮になると、山から降りて来る、神と人との間のものがあると信じた時代がありました。これが後には、鬼・天狗と考へられる様になつたのですが、正月に迎へる歳神様(歳徳神)も、それから変つてゐるので、更に古くは、祖先神が来ると信じたのです。」とズバリ説明しています。

お正月とお盆の行事の類似性については、他の参考文献でも様々な考えが述べられており、大変興味深いです。

夏と年末の年2回先祖の霊を迎えていた習わしが、夏はお盆として仏教との結びつきが強くなり、年末は、神道における祖先の御霊を神として祀るということから歳神様をお迎えするお正月の行事となっていったという考えがあります。

しかし、お正月は農業のための祭りから始まって、祖先祭祀の方が後に加わったという見方もあります。

風習やしきたりというものが地域ごとまたは家ごとに異なる発展していくものでしょうから、歳神様は、その家ごとに違うと言えますし、また、「ご先祖様を含む五穀豊穣の神様で幸せをもたらすためにいらっしゃる」とも解釈していいのだと思います。

いずれにしても、歳神様をお迎えするために、正月事始めと呼ばれる準備期間が12月13日から始まって、煤払いをして家の中をきれいにしたり、門松や注連縄などのお正月飾り、お餅などを用意するんですね。
29日は二重苦、31日は元旦の前日で一夜飾りとされるため、門松は28日までに準備しましょう!と書いてあるサイトが多かったので、この記事も28日に仕上げようと頑張ってみましたが、いろいろな資料を読むのに時間がかかり、30日になってしまいました。

では、どうして依代として松が選ばれたのでしょうか?

 

「子(ね)の日の松」

門松の由来は平安時代の宮廷礼儀である「子(ね)の日の松」とするのが通説となっています。

「子の日の松」とは「小松引き」とも呼ばれ、正月初めの子の日に貴族が野山に出かけて行き、小さな松の木を引き抜く野遊びで、上賀茂神社の燃灯祭(ねんとうさい)はそれを神事化したものだそうです(燃灯祭が行われる日は2月第2の子の日)。

また、京都では、お正月に根引松(ねびきまつ)と呼ばれる根のついた松飾りを門や家の入口などに飾る習慣があり、これも「子の日の松」に由来しているとのことです。

天龍寺
Photo by (c)Tomo.Yun
http://www.yunphoto.net
天龍寺の根引松

「子の日」の行事は、この小松引きの他に、若菜摘みがあり、どちらも長寿を祝うためのものだったことが和歌や源氏物語などから知られています。

では、小さな松の木と若菜が長寿を祝うこととどのような関係があるのでしょうか?

小松を根から引くのは、松は常緑で長生きや強い生命力の象徴とされ、「ねのび(ねのひ)」と「根延び」を掛けて健康と長寿を祈るためだそうです。

また、子の日の行事は、中国にあった風習が日本に伝わり、奈良時代から既に行われており、野山に出るのは邪気を祓い煩悩を除くためでもあったとされています。

これは山の上や海岸で初日の出を拝む(太陽信仰、または太陽=天照大神?)風習につながっているようにも思われますね。

 

ちょっと寄り道

子の日の小松引きと若菜摘みの行事については、同志社女子大学生活科学部教授・森田潤司先生の『季節を祝う食べ物-(2)新年を祝う七草粥の変遷』に、とても詳しい説明があります。

若菜摘みは、単なる遊びではなく、冬の間に新鮮な菜類を得るために民衆の間で古くからおこなわれていたものだったことがわかります。

宮廷では、宇多天皇の時代の896年に子の日の宴において、松にあやかって長寿を祈り、若菜を羹(あつもの)として食したことが挙げられており、松は象徴的な意味で、若菜は具体的に体に働きかけるものとして、両方が長寿を願うために組み合わされていたのです。

若菜の羹は七草粥のルーツなのでしょうか?

この論文では、もともとは七種(ななくさ)の羹を食する正月7日の行事と子の日の若菜の羹の行事がそれぞれ独立した行事だったものが、7日の七種の羹の方にまとめられていったということを明らかにしています。

また、15日には七種の穀物を入れた七種粥という伝統があり、それが7日の七種の羹と合わさって、鎌倉時代から室町時代にかけて七種粥だけになり、江戸時代に入って、幕府によって7日に七種類の若菜を入れた粥を食することが行事となって、それが民衆に伝わり現在の七種粥(七草粥)になっていったことがわかります。

このように、子の日の行事として行われていた小松引きと若菜摘みは、それぞれ異なった発展をしていき、今では関連性がわかりにくくなってしまいましたが、いずれもその風習が伝えれてきたのです。

森田潤司教授の論文から、もうひとつ考えてみたいことがでてきました。

12世紀の『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』の記述の引用とともに「子の日に小松を引く起源の一つは、子日に引いた小松と耆(豆科のメドハギ)を用いて玉箒を作ったことに関係すると考えられる」(注:耆には「き」のふりがながあります)という、興味深いテーマを挙げてくれています。

ちなみに、玉箒(たまばはき、たまははき、たまばわき)という言葉だけ調べると、新年の最初の子の日に蚕室を掃き清めて蚕神を祀る儀礼用として使われたものだそうですが、玉箒という言葉が材料である植物を意味することもあり、そこからいろいろなことが考えられるのです。

ただし、ここで注意したいのは、『袖中抄』の記述は、宮廷ではなく田舎での風習についてです。若菜摘みも小松引きも、もともとは庶民の風習であり、小松は蚕室の清掃用の箒を作るために引き抜かれていたのが、宮廷行事に取り入れられ変わっていったのかもしれません。

正倉院に収められている「子日目利箒(ねのひのめとぎのほうき)」は、758年の儀式で用いられたものだそうで、本体部分は、マメ科のメドハギとは異なるキク科のコウヤボウキPertya scandensの茎を束ねて作られています。コウヤボウキの別名のひとつにタマボウキがあります。

上賀茂神社の燃灯祭では、引いた小松に燃灯草(ネントウソウ)を添えて神前に供えるそうですが、燃灯草は、一般的にはキク科の玉箒(タマボウキ)または田村草(タムラソウ)Serratula coronata var. insularisとして知られている植物だそうです。

以上を総合すると、かつては玉箒と呼ばれる植物がいくつもあったのではないかと思われます。

前回の「宝生院のシンパク」の記事を書いているときに、別名がいくつもあって苦労しましたが、植物の名前というのは、最初は地域で呼び名が違ったり、複数の異なる植物が同じ名前で呼ばれたりして、別名が付いてきたのでしょうね。

森田潤司『季節を祝う食べ物-(2)新年を祝う七草粥の変遷』は、同志社女子大学学術リポジトリから閲覧可能です。

 

子の日の松から門松へ

子の日の小松引きから門松へどのように変化していったのでしょうか。

門松という呼び方と習慣については、比較的多くの情報が得られます。

平安末期の本朝無題詩という漢詩集の中で惟宗孝言(これむねのたかとき)が「門に松を挿す」と示していることが門松に関する最も古い文献とされ、堀川百首(堀河院御時百首和歌)の修理大夫藤原顕季(しゅりだゆう・ふじわらのあきすえ)の歌に「門松」という言葉が使われていることから、平安後期には既に門松という習慣があったと考えられています。

「年中行事絵巻」の一部
「年中行事絵巻」の一部
国立国会図書館デジタルコレクションより

「年中行事絵巻」の一部
「年中行事絵巻」の一部
国立国会図書館デジタルコレクションより

上の画像はインターネット公開(保護期間満了)扱いになっています。

ただ、当時の門松は現在のような形ではなかったようで、江戸時代に描かれた絵を見ると門松は大きな松だけを立てていたことがわかります。

竹は古くから日本にも存在していた一方で、孟宗竹(モウソウチク、モウソウダケ)は日本に自生しておらず江戸時代後期に入ってきた種類だということが知られており、現在の門松に見られるような竹はそれまで使われていなかったと考えられています。

竹取物語という話があるぐらいなので、他の種類の竹はどうなんだろうと思って調べたところ、太目の種類の真竹(マダケ)は日本の在来種であるとする説と、中国から導入されたという説があり、それ以外の種類の竹は門松に使われているような太さにはならないようです。

また、孟宗竹も真竹も最初は人工的に植えらてから増えたものらしいので、かつては貴重なものだったのかもしれません。

折口信夫著『門松のはなし』でも、「今日の様な形に固定したのは、江戸時代に、諸国の大名が江戸に集つた為に、自然と或一つの形に近づいて行つたのだと思ひます。或は、今日の形は、当時最勢力のあつたものの模倣であつたかも知れません。」と述べられています。

門松に竹が使われた例として、戦国時代の徳川家康と武田信玄のエピソードがありますが、ただの言い伝えではなく、記述が残っているようです。

武田軍と徳川軍が戦っている間に正月を迎えたため両軍とも門松を作り、武田信玄は竹を節のところで真横から切り「松(徳川=松平)枯れて 竹(武田)たぐひなき あしたかな」、徳川家康は竹を斜めに切って「「松(徳川=松平)枯れで、竹だ(武田)くび(首)なきあしたかな」と言ったとされています。

そのため、竹を真横に切る方法(寸胴)は武田流として主に山梨県内、斜めに切る方法(そぎ)は徳川の影響を強く受けた地域に伝わっているようです。具体的な調査結果が公開されるのを期待しています。

江戸時代の門松は、絵からその形を知ることができます。

「江戸名所図会 ・巻1」の「元旦諸侯登城之図」
「江戸名所図会 ・巻1」の「元旦諸侯登城之図」(コマ26)
国立国会図書館デジタルコレクションより

上の画像はインターネット公開(保護期間満了)扱いになっています。

人物の大きさから竹の高さは4~5メートルぐらいと考えられますが、竹は葉のある枝付きで、斜めに切る方法はまだ主流ではなかったようです。

使われている竹は孟宗竹よりも細い種類の竹に見えますから、やはりこの時代は孟宗竹はまだ普及しておらず、徳川家康が切った竹も孟宗竹ではなかったと考えられます。

「元旦諸侯登城之図」の門松は、松は竹よりも短くなっている点、また、1対で門の前に立てられている点で、現在の門松の形に近づきつつあることがわかります。

ただし、この門松は江戸城のものであって、一般の大名や商人でこのような門松が立てられていたかどうかは疑問です。

東京江戸博物館のサイトでは、「『守貞謾稿』をみると、武家の屋敷や大店の飾りには竹の添え木はないものが多く、上部を斜め切りにした竹を添え木とした松飾りは、医師などに多い飾り方としています。」とあります。

東京江戸博物館のレファレンス事例集(東京の正しい門松の形を知りたい。(2003年)に対する2015年6月8日記事)

ただ、民衆と門松が描かれている浮世絵をいくつか見ると、竹の長さは2メートル程度と推測されますが、葉のある枝付きで、松は竹よりも短い点は江戸城の門松に似ています。場所は特に門に限られていなかったようで、縁側の横に立てられた門松が描かれているものもあります。

「江戸名所図会」も「守貞謾稿(もりさだまんこう)」は19世紀の刊行です。

その後の門松の様子を知るには、横浜市のサイトで紹介されている明治時代の写真がわかりやすいです。

明治36年から37年にかけて(1903-1904)の年末年始の写真の絵葉書で、そこには江戸時代のように家の屋根を超える高さで葉のある枝付きの細い竹が門松として立てられています。

説明文によると、このように葉のついた長い竹と小さな松を入口の柱に結んだり、地面に埋め込んだりしていたそうです。

ただし、これは商家での門松についてのことで、他の民家ではどうだったのかまでは知ることができませんが、明治時代後半でもまだ現在のような形の門松はあまり普及していなかったとも考えられます。

横浜市サイト・歴史の散歩道・第174回横浜のお正月(2014年1月号掲載)

現在のような形の門松は大正時代以降に急速に普及したということになりますが、その経緯がわかるような情報が全く見つからなかったのは残念です。

ところで、「門松」という言葉は、洛中洛外の屏風が描かれた室町時代末期、「門は建物の前の庭の干し場だったといわれ、その干し場の真中に松を1本立てて神を迎えた」とのことで、現在見られるような門に1対で立てられるようになったのは江戸時代中期とされています。

和田謙寿『民俗学的に見た年末年始の習俗』

干し場とは洗濯物を干す場所ではなく、「農家でカドというのは、門のことではなくて家の外ではあるが、屋敷の内で麦や稲を干す広庭のことであった」と説明があります。そして、明治以降の都市化と文字から知識を得る人の増加に伴って、カド松とモン松が一つに考えられるようになったという経緯も述べられています。

吉川正倫先生の『門松考』は、ネットで検索するとPDFが自動的にダウンロードされてしまうのでリンクを貼ることができませんでした。『大手前女子大学論集』に収録されているようです。

吉川正倫『門松考』(大手前大学・大手前短期大学リポジトリ

次のサイトからもダウンロード可能です。http://jairo.nii.ac.jp/0352/00000778/en

文字から知識を得る、というのは、発音ではなく書かれた文字から言葉を学ぶということですね。ふりがながない漢字の読み方で生じやすい問題です(日本の戸籍に記載された人名・地名の読み方は特に困ります)。

門松についての変遷については以上のようなことがわかりましたが、そのルーツとされる小松引きの行事から門松に変わっていったプロセスを説明している情報がありませんでした。

上賀茂神社の燃灯祭(ねんとうさい)と、京都の根引松(ねびきまつ)以外に、小松引きと門松の関係がわかる手がかりはないのでしょうか?

共通点の「松」について調べてみます。

 

門松に使う松と門松の変遷について

「左に雄松、右に雌松を置きましょう」というサイトがたくさんあるのですが、門松を作っている園芸店などのサイトではそうしたことには触れられておらず、クロマツ(黒松)のことを雄松、アカマツ(赤松)のことを雌松と呼び、門松にはクロマツのみが使われていることが多い、ということだけしかわかりませんでした。

『民俗学的に見た年末年始の習俗』には、「或る故実として、左に男松、右に女松を立てるのは、伊弉諾・伊弉冊の二神をあらわし、竹は国立尊に象るといわれている」と述べられています。
(注:原文中、男松、女松、伊弉諾、伊弉冊には「おまつ」、「めまつ」、「いざなぎ」、「いざなみ」のふりがながあります)。

和田謙寿『民俗学的に見た年末年始の習俗』

亀山市史民族編というサイトでも、「雄松と雌松を一対とする門松もあるが、亀山地区の住山町や中庄町のように雄松のみを使用する場合もあった」と報告されています。

亀山市史民族編1正月準備(3)正月飾

以上から考えられることとしては、かつては左に雄松(クロマツ)、右に雌松(アカマツ)としていたが、アカマツは山地に多くクロマツは海岸に多いということから、準備をするのがとても大変で、クロマツが主流になっていったのではないかということです。

もしかすると、クロマツの葉の方がアカマツの葉より長く見栄えがよいと思われてのことかもしれません。

樹皮の色はクロマツが灰黒色、アカマツは赤褐色という違いもありますが、門松では樹皮の色はあまり考慮されないはずです。

雄松、雌松という呼び方の由来は、この樹皮の違いからという説、クロマツの葉に触ると痛いのに対して、アカマツの葉の方は触ってもあまり痛くなりからという説などがあります。

また、アカマツは山地に生えてマツタケが生える木なので、門松に使わないようにしたのかもしれませんね。

京都の根引松でも雄松と雌松としているサイトがいくつかありましたが、こちらも確認できませんでした。

これだけ雄松と雌松の区別が大切に考えられるようになったのには、何か理由があるのではないでしょうか?

『門松のはなし』に、「歳神様は三日の晩に尉と姥の姿で、お帰りになると言ふ信仰」が書かれています。

尉(じょう)と姥(うば)とは何だろう?と思って調べたところ、兵庫県高砂市(たかさごし)の高砂神社の相生の霊松(あいおいのれいまつ)にまつわる話でした。

一つの根から雌松(アカマツ)と雄松(クロマツ)の幹が出て、尉と姥の2神が現れて夫婦の在り方を示すためこの松に宿ると告げたことから、この呼び名がついたそうです。

また、尉と姥とはイザナギとイザナミであると考えられています。

『民俗学的に見た年末年始の習俗』での説明と共通する部分がありますので、門松で左に雄松、右に雌松というのは、この相生の霊松の話が能の『高砂』を通じて広く知れ渡るようになり、松、縁結び、夫婦愛、長寿といったことから、門松につながっていったものと思われます。

今では実際に市場に出回っている門松が雄松・雌松にこだわらずにクロマツだけで作られているのであれば、雄松・雌松を見分けることもできませんから、雄松・雌松をイメージしながら縁結び、夫婦愛、長寿などを祈ればいいと思います。

・・・ここまで書いてきて、更にまた調べてみたところ、次のサイトから正月飾り用の松は栽培されていることがわかりました。

「松」特集 なぜ縁起の良い木なのか、海岸に多い理由、松の葉は猫の好物?を紹介

宇田明の『まだまだ言います』門松の松は山から切ってくるの?

また、更にいろいろなサイトを読んでいくうちに、以下のこともわかりました。

  • 門松の松は栽培ものが多い

茨城県神栖市(かみすし)の若松の栽培は大正時代初期に始まったそうで、今では若松の出荷額が全国1とのことです。

注:若松とは「私たち日本人にとって特別な日『お正月』には欠かすことのできない、大変なじみのあるものなのです。」とのことで、門松やその他のお正月飾りに使われる松ということですね。

神栖市観光協会

栽培されているものがクロマツかアカマツかはわかりませんでしたが、神栖市が海に近いことからクロマツではないでしょうか。

  • 「門松カード」からわかる松の伐採問題

昭和33年12月15日の館山市広報の中に、「門松カード」に関する記事があります。

この記事によると、門松やクリスマスツリーのために松の伐採が行われて、建築材や治山治水のための木材を確保するために、「門松カード」での代用が推奨されたことがわかります。

当時はクリスマスツリーにも松が使われていたんですね~。

昭和33年12月15日の館山市広報 
次のサイトからご覧いただけます。http://www.city.tateyama.chiba.jp/hisyo/page100026.html

昭和33年頃は、松は栽培されてはいたものの、伐採が問題になっていたというのは注目すべき点です。

さて、小松引きと門松の関連性は、相生の霊松の話から、長寿という点と、神が宿るという点において、見えてきたように思いますが、ここでもう一度、風習というものは地域によって発展の仕方が異なるということに注目してみたいと思います。

まず、門松に松を使わないところや門松を立てないところがあります。松を使わない例として、東京都府中市の大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)や兵庫県神戸市の生田神社(いくたじんじゃ)、箱根の村々があります。鳥取県米子市上安曇(よなごしかみあずま)では門松を立てないそうです。

次に、『徒然草』第19段の内容から、鎌倉時代には門松が一般的になっていたという見方もありますが、これは都の話ではないでしょうか。

門松の絵にしても、それらは当時の都や大都市の様子を描いたものです。

16世紀頃の文献から地方でも門松の風習があったと確認できる記述もありましたが、それは地域的な記録なので、全国的に広がっていたかどうかまではわかりません。

小松引きは、都を中心とする門松のルーツであるかもしれませんが、全国的に同じことが言えるとは限らないように思えます。

都やお殿様の風習だからといって、民衆がすぐに真似をするでしょうか。門松なら門松というコンセプトが導入されつつも、それから先は、それぞれの地域で、それぞれの風習、信仰、風土とともに発達してきたのだと思います。

小松引きと七草粥はどちらも長寿を祈るためのものでした。長生きするには、食べ物が必要です。そうすると、田の神や穀物の神、あるいは農作物の収穫を助けてくれる祖霊に祈ることになります。

小松引きの時代の松は、お正月の神様の依代としては使われていなかったかもしれませんが、門松の風習が広がり発達していく中で、松やその他の木が歳神様の依代となっていったと考えられます。

松林のイメージ
松林のイメージ
写真ACからダウンロード

 

門松の竹

江戸時代や明治時代には使っていた竹は、太さや高さからすると、淡竹(ハチク)だと思われます。

現在は主流が孟宗竹ですが、真竹を使っている門松もサイトで見かけました。門松を作る地域で入手しやすい方を使っているのではないでしょうか。

典型的となった門松には竹が3本使われ、その比率は縁起の良い数字とされる3:5:7という説明が多いです。

竹を斜めに切る方法(そぎ)では、竹の空洞部分だけを見せるように切ったものと、節部分を見せるように切ったものがあり、節部分を見せるように切った方は、切り口が笑っている口のように見えることから「笑う門には福来る」 という意味があるそうです。

松と竹といえば、松竹梅と3つを一緒にして考えたくなります。

松竹梅の由来が歳寒三友(さいかんのさんゆう)という宋代の中国の水墨画で好まれた画題ということは、多くのサイトで紹介されています。なぜ好まれたかと言えば、松と竹は常緑で(竹は風雪に耐えてまっすく伸びるという意味もある)、梅は寒さの中で一番に花を開くからだそうですが、もう少し竹について調べてみたいと思います。

孟宗竹日本の在来種でなかったことは知られており、真竹についても日本古来のものであったか確かなことはわかっていませんが、縄文時代の遺跡から竹を使った製品が出土しているそうですし、竹取物語が平安時代のものであるということは、種類はわからなくても竹はその頃から既に身近にあったわけです。

人々が松を長寿の象徴としていたなら、竹にはどのような思いを持っていたのでしょうか。

竹は、常緑であるというだけでなく、成長が早いことや、まっすぐに伸びることなどから、人々は生命力の強さや神秘性を見出し、竹に神霊が宿る場所、つまり依り代の一つとされてきたのです。
また、中が空洞であることも神秘性を高めていたとも言われます。

七夕では竹が依代として、地鎮祭では依代を設ける神聖な場所を作るために使われます。

地鎮祭に使われる葉がついた竹は斎竹(忌竹)(いみだけ)と呼ばれ、四隅に立てて注連縄(しめなわ)を張ることで、清浄な空間となるのだそうです。

門松の松と違って、神様の依代となるのは竹ではなく、この神聖な場所に設けられた祭壇の神籬(ひもろぎ)で、神籬には榊が使われます。

このように、竹は松竹梅の縁起物としてだけでなく、神様を迎えるために適した植物の一つとされてきたために、門松にも加えられたものと考えられます。

竹林のイメージ
竹林のイメージ
写真ACからダウンロード

 

松迎え、松の内、松納め

あまり見かけないとは言っても、門松は歳神様の依代としてお正月の本質ともいうべき存在であることには変わりなく、「松の内」と呼ばれる期間も門松に由来していることがわかりました。

「松の内」は門松を立てている期間のことで、門松などに用いる松を山野にとりにいくことを「松迎え」、門松や注連縄などを取り払うことを「松納め(松送り)」と呼ぶそうです。

松納めは、1月7日、15日、または最初の卯の日としているところなど地域によって違うそうです。

取り払われた門松は、左義長(さぎちょう)どんど焼き、さいの神などと呼ばれる行事で火の中に入れ、そこから立ちのぼる煙に乗って神様がお帰りになるとされます。

子供の頃に何度かさいの神に行った経験がありますが、このような意味があることは今まで全く知りませんでした。聞いたことがあったのかもしれませんが、子供だったので、そこでお餅やスルメを焼いて食べる方に夢中だったんだと思います。冬の寒い屋外で大きな火を見ながら食べると美味しさも格別なんですよ。。。

なお、こうした行事以外で門松を処分する場合は、塩でお清めをして、他のゴミと分けて処分する方法をおすすめしているサイトが多かったです。

 

今回の旅を振り返って

お正月は歳神様をお迎えして幸福を祈る、その歳神様に来ていただくために門松があるのだということがよくわかりました。

門松について調べるということは、日本の伝統、信仰、風習、地域、昔の身分制度といった複雑な要素がいくつも絡みあって発展してきたものを、様々な角度から広範囲にわたって見る必要があると強く感じました。
中でも、民俗学を通じた調査論文は貴重で、これからもより多くの研究がなされ、論文が閲覧しやすくなることを期待しています。

ブログのテーマが木なので、今回は門松についてだけ調べましたが、お正月について語るのなら、注連飾りや鏡餅などについても調べないと全体がよくわかりません。別の機会があったら調べてみたいと思います。

また、お盆は仏教と結びつき、お正月は神道と結びつき・・・という見方にとどまらず、大晦日の除夜の鐘のことなども調べていったら、更に日本の文化がよくわかることでしょう。

情報伝達や移動の手段が急速に増加・加速していくようになるに伴い、それまで地域性を保っていた風習が全国的に画一化されてしまうのを残念に思うのは私だけでしょうか。

私たちは、伝統や風習というのは、地域性があるのが自然な流れであって、全国すべて同じ方が不自然だ、ということを忘れてしまいがちで、「存在しない正しいものを探す」ようになってしまっているのかもしれません。

人に対するマナーは、全国的に統一されていた方がトラブルを避けられて良いと思いますが、家や地域の中で伝えられてきたお正月を始め各地のお祭りといったものは、地域性が保たれないと本来の意味がわからなくなってしまいます。

でも、地域性も時とともに変化していくので、現代ではそれが薄まっていくのも仕方ないのかもしれません。記述や画像で残していきたいものです。

お正月と門松は日本独特の文化ですが、実はそれがクリスマスの文化と類似点がいくつもあることが知られています。

クリスマスもまた、本来の意味や地域性が見えにくくなってきています。

グローバル化する世界の中で、私たちはもういちど地域性の価値を見つめなおし、後世に伝えると同時に、他の文化をお互いによく理解しあい、平和な世界を築いていきたいものだと思います。

皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください。

 

本文内で紹介したもの以外の主な出典(順不同):

神社本庁・お正月のあれこれ
大國魂神社・神社の豆知識6
今宮戎神社・十日戎の笹
みんなの趣味の園芸NHK出版・七夕の神聖な植物―カジノキ・竹・笹
龍澤山善寳寺・七夕まつり
高砂市・尉と姥伝説
県立新潟女子短期大学板垣俊一教授の『近世国学の民衆的基盤-生活者としての本居宣長-』新潟県地域共同リポジトリから検索可能
京都の風俗博物館
福島美術館通信No.40
愛媛県 PDF資料 第2章竹の歴史
山梨県うらおもてなくおもてなし武将隊 風林火山 甲陽戦国隊
米子市 門松を立てない村(上安曇)
大國魂神社 七不思議について
上賀茂神社 燃灯祭(乙子の神事)
レファレンス共同データベース 生田神社 杉盛りについて 
レファレンス共同データベース 門松の竹の先について
国立歴史民俗博物館研究部歴史研究系 准教授 田中大喜先生の 第214回くらしの植物苑観察会2017年1月28日(土)『中世人と植物』
伊藤幹治『瑞穂の国再考』 CiNiiのサイトから見つけられます
吉川正倫『祖霊と穀霊-特にその論点をめぐって-』CiNiiのサイトから見つけられます。
A Tropical Garden 門松~悠久の歴史と飾り方3つのルール~

論文がPDFでお名前だけしか書かれていない場合は、情報源をたどり役職等が見つかった場合は記載させていただきましたが、間違っている場合はどうぞお許しください。

参考にさせていただいたサイトの著作権を尊重し、違反しないよう十分注意して書いたつもりですが、もし問題だと思われる部分があればお知らせくださいますよう、お願いいたします。

 

生命感あふれる宝生院の真柏

香川県小豆島(かがわけんしょうどしま)
宝生院(ほうしょういん)の真柏(シンパク)

国指定特別天然記念物
樹齢1500年または1600年以上。
応神天皇(おうじんてんのう)の手植えとされる。
樹高約17m。幹周約17m。

宝生院の真柏
宝生院の真柏 (2014年3月撮影©MY)

出発

父から送ってもらった木の写真の中で、この木が一番個性的だと思いました。
躍動感があって、人々を招いているようにも見えます。まさに旅への招待かも?

では、1本の木から始まる発見の旅へ、出発!

 

木の名前も分類も難しい

元気よく出発してみたものの、いや~、最初からレベル高すぎ。「真柏」って何て読むんですか?名前をメールで教えてもらったときに漢字だけで表記されていたので、読めなくてガックリ。ネットで調べると、カタカナで「シンパク」と紹介されていることが多くてホッとしました。

ところが次に困ったのが「シンパク」の分類。「ミヤマビャクシン」のことであるとか、「イブキ」の変種であるとか、サイトによっていろいろな情報がありすぎて、途方に暮れてかけていたら、2015年に行われた調査(第28回巨木を語ろう全国フォーラム開催記念-巨樹・巨木林の健康診断「宝生院のシンパク」の健康診断)の結果を見つけました。

それによると、宝生院のシンパクは、ヒノキ科ビャクシン属の「イブキJuniperus chinensis L.」。そして、別名に「ビャクシン」、「イブキビャクシン」、「シンパク」があって、宝生院の木は「シンパク」の名称で呼ばれているとのことです。

ネットで検索すると、園芸や盆栽のサイトで「シンパク」の名前がよく出てきますが、宝生院のシンパクとは見た感じがずいぶん違うので、本当に同じ種類の木なのか、自分の調べ方が悪いのかと悩みました。

植物図鑑を作るのが目的ではないので、どうしてもわからないものは、推測して自分が納得すればいいということにします。

「イブキJuniperus chinensis L.」と呼ばれる種類の中に更にまたいろいろな種類があるらしく、園芸用は「ミヤマビャクシン」と「カイズカイブキ」という品種、盆栽だと「糸魚川真柏(イトイガワシンパク)」という品種もよく使われているように思いました。

宝生院のシンパクのような巨木や盆栽はあまり見る機会がないですから、日常では見かけない珍しい木なのかと思いましたが、ネットで見つかるいろいろな写真を見てみると、「カイズカイブキ」の方は、あ、これ見たことあるかも、というのがあります。

ここで使える画像がないのでわかりずらい説明になってしまいますが、生垣や庭木として使われている写真を見ると、もしかしてあれもそうなのかな~というのが、いくつも頭に浮かびます。また、結構大きくなる木なんだということもわかりました。

ところで、「シンパク」は「真柏」と「槇柏」のどちらの書き方でもよいようです。あら?柏真ビャクシンと真柏シンパク・・・漢字を前後入れ替えたってことですね。

ちなみに、「柏(カシワ)」という漢字が含まれているので、何か関係があるのかな?と思って調べたところ、柏はブナ目ブナ科の木でした。
ビャクシンは針葉樹、カシワは落葉樹で、全く違う種類の木なんですね。

 

「イブキ(シンパク)」の特徴

「イブキ」の特徴についてですが、別名がいくつもあるせいか、調べるのは結構大変でしたが、次のようなことがわかりました。

  • 分布範囲が狭い。日本では本州、四国、九州、外国では中国中部と朝鮮半島。
  • 海岸などに自生している(主に太平洋岸)。
  • 種類によっては園芸、庭木、生垣に、また華道でもよく使われる。
  • 大きくなると幹にねじれが出やすくなるらしい。
  • 樹皮は赤褐色で、縦に薄く剥がれる。(樹皮の特徴は写真ではわかりずらいことが多い)
  • 花について
    情報が少なく、開花した様子の写真も自分では見つけることができなかったが、開花時期は4月頃らしい。また、花と言っても、花びらが付くタイプのものではないようだ。イメージ的にはスギ花粉の時に紹介されるスギの花(超ミニサイズの松ぼっくりのような形)を更に小さくしたようなものかと思われた。
  • 木材として
    複数の画像を見たところ、赤みがかった、温かみのある色合い。
    出荷量が少なくあまり使われていないようなので、情報も少なかったのですが、よい香りもする高級木材のようです。
  • 実について
    実は「イブキ」で検索してもほとんど何も見つからなかったので、「ビャクシン」で調べたら何枚か写真を見つけることができた。紫がかった藍色のような感じだが、白く粉がかかっている。形が丸く、数個がまとまっているので、ブルーベリーのような雰囲気もあるが、果肉はなさそうだ。

ちょっと寄り道

「イブキ」の実が食用になるかどうかわかりませんでしたが、同じビャクシン属Juniperusの木の実は意外と身近なところで使われていました。

ネズJuniperus rigidaの実は、「杜松実(としょうじつ)」または「杜松子(としょうし)」:漢方薬に使われれています。

セイヨウネズJuniperus communisの実は、「ネズの実」または「ジュニパーベリー」:ジン(蒸留酒の一種)の香りづけや、スパイスとして使われています。

ネズJuniperus rigidaの分布は、もともとは中国や日本の東アジアだけのようですが、最近はヨーロッパでも盆栽として人気があるようです。セイヨウネズJuniperus communisは広範囲に分布していて、ヨーロッパや北アメリカ、アジアにも自生しているんですね。

杜松実もネズの実も、尿酸値を下げる、炎症を抑える、消化を助けるといった効果があるそうです。

ネズの実はフランス語でBaie de genièvreベ・ド・ジュニエーヴルと言います。ビャクシン属の木の漿果(しょうか)(球果)という意味ですね。ベ・ド・ジュニエーヴルはアルザスの伝統料理シュークルートにも使います。固い丸い実のまま入れて、料理すれば柔らかくなりますが、食感がよくないので私はいつも残していますが。。。

「イブキ」または「ビャクシン」としてお寺に植えられていることも多く、天然記念物に指定されている巨木もあります。指定されているものを調べるには、文化庁の国指定文化財等データベースが便利!

例:

  • 城願寺(じょうがんじ)のビャクシン(神奈川県)国指定天然記念物
  • 古長禅寺(こちょうぜんじ)のビャクシン(山梨県)国指定天然記念物
  • いぶき山イブキ樹叢(じゅそう)(茨城県)国指定天然記念物
  • 恩徳寺(おんとくじ)の結びイブキ(山口県)国指定天然記念物

いぶき山イブキ樹叢は1本の木ではなく、小高い山(丘?)の上に何本かまとまった自然のイブキ林。

 

 

宝生院のシンパク、さすが国指定特別天然記念物

宝生院のシンパクに話を戻します。幹は地上1メートルぐらいのところで三方に分かれていて、本幹の根元の一部が空洞になっているそうですが、ネットで見つかる写真では、撮影角度にもよるのでしょうが、3本の大きな木のようにも見えます。

枝も含めて全体がとても生き生きした感じがします。部分によって、亀や龍など、いろいろな形に見えるのにも驚かされますし、ねじれとか、樹皮のうねりのようなものが、この木が生きてきた時間の長さを感じさせます。 

でも、2015年の調査(第28回巨木を語ろう全国フォーラム開催記念-巨樹・巨木林の健康診断「宝生院のシンパク」の健康診断)結果では、生育状況に関する総合的な衰退度レベルが、IからVの5段階評価でIII「不良」となっていました。この結果を考慮してか、2016年に保存会が発足したり、保護のために今年11月に駐車場の舗装を透水性コンクリートにする工事が行われたりと、木を守る活動が進んでいるようです。

写真によって注連縄(しめなわ)の付いているのと付いていないのがあるのはどうしてなのでしょう?

残念ながら葉の形状がわかる写真は見つかりませんでした。

 

それで、国指定特別天然記念物って?

今まで何気なく聞いていた言葉も、ふとしたことで正確な意味がわかっていなかったと気づくことがあります(私だけかもしれませんが)。

天然ということは自然の物ってことだと思うのですが、記念物として指定されるには基準があるだろうし、指定されたら何かメリットがあるのかとか、疑問が次々に出てきました。

文化庁のサイトで提供されている情報によると、天然記念物には4種類あって、動物、植物、地質鉱物、天然保護区域に分類されて、その中に特別天然記念物に指定されているものがあるとのことで、植物で特別天然記念物になっているものは全国に30しかありません。宝生院のシンパクはその一つなんですね。

天然物指定の対象になる条件としては、学術上貴重なものであることと、日本の自然を記念するものということが挙げられていますが、その条件を満たしているかどうか調査や研究が行うんですね。樹木の場合は、名木や巨木だけでなく、並木も対象になるとは驚きでした。

指定されたもの全てではありませんが、必要と判断されたものは保護措置が取られるそうです。

文化庁が公開している記念物(天然記念物だけでなく史跡や名勝も含まれます)の保護に関するパンフレットは、カラーで写真も多くて見やすいのでおすすめです!

 

応神天皇(おうじんてんのう)については?

ところで、宝生院のシンパクを植えたとされる応神天皇って、いつの時代の人でしょうか?ネットで調べるといろいろ異なる情報がありますが、3世紀~4世紀、4世紀~5世紀という説が多いです。
この時代の史実はまだほとんど解明されていないようなので、あまり深く追求せず、5世紀初めなら樹齢が1600年で計算が合うと考えていいのではないでしょうか。

また、3世紀から5世紀頃という数字でとらえるよりも、古墳時代という時代区分に注目した方がイメージしやすくなると思います。

ネット検索の面白い点は、ちょっと調べただけで、正確なものであるかどうかは別として、本当にたくさんの情報が入ってくることで、応神天皇というキーワードだけで、大阪府羽曳野市(はびきのし)に応神天皇陵と考えられている誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)という前方後円墳があることもわかりました。

更に、応神天皇は誉田別命(ほんだわけのみこと)、誉田天皇(ほむたのすめらみこと・ほんだのすめらみこと)という別名がある(他にも別名がありますが、ここでは省略)とわかると、古墳の名前がなぜ誉田御廟山古墳なのかもわかりますよね。それにしても日本語の固有名詞の漢字の読み方って本当に難しい~!

しかも、古墳の前に日本最古の八幡宮とされる誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)があると知り、八幡宮について調べるとまた多くの情報が入り、へえ、そうだったんだー、と驚きの連続となりました。

全国にたくさんある八幡宮(全国最多らしいです)は八幡神を祭神としているとのことですが、では八幡神とはどういう神様なのかという疑問が出てきます。

八幡神は応神天皇であるとされ、応神天皇だけを御祭神としている八幡宮と、応神天皇、神功皇后(じんぐうこうごう)、比売神(ひめがみ)の三柱の神様を八幡神としている八幡宮とがあるようです。

ここでまた日本語の難しい点が・・・「三柱」って何だろう?と思ったら、神様の人数を数える数助詞でした。。。で、読み方は?「はしら」だそうです。
「座(ざ)」という数助詞を使ってもいいようです。「木」のことを調べていたら助数詞も学べちゃいました。

話がかなり脱線してしまいました。
実は「3」という数字も気になるんですが、また別の機会にでも。

応神天皇について調べてみて、古墳時代というのはまだ謎に満ちているんだなと思うと同時に、宝生院のシンパクは、その時代に既に存在していたのかと思うと、木の生命力ってすごい!と、ただ驚くばかりです。

そして伝説とは言っても、応神天皇が植えたという話が今にまで伝えられてきたということは、それがいつ頃から伝えられ始めたのかわからなくても、このシンパクに対する人々の畏敬の念の現れなのではないでしょうか。

 

宝生院と小豆島八十八ケ所霊場

さて、このシンパクがある宝生院は、小豆島八十八ケ所霊場第54番札所と紹介されています。宝生院に関する情報がほとんど見つかりませんでしたが、梁に施された天女の彫刻が素晴らしいようです。

小豆島八十八ケ所霊場(れいじょう)は、弘法大師(空海)(774-835)が修行や祈念を行ったとされる霊場とのことで、94か所が公認霊場になっているそうです。全長約150キロ。公式サイトを見てわかったのですが、修行や祈りのために霊場をめぐる(巡拝を行う)人が「お遍路(へんろ)さん」。
どうもこの「遍路」という言葉は、小豆島八十八ケ所霊場と四国八十八ケ所霊場の巡礼のみを指すようなのですが、誰か教えてください。

小豆島八十八ケ所霊場の写真を見ると、ごつごつとした岩壁の隙間に設けられた場所だったり、千枚田が見渡せる場所だったり、本当に驚かされます。
厳しい面と優しい面を持つ自然の中を歩くことで心身ともに修行し祈る道なのでしょうね。

弘法大師というと真言宗の開祖で高野山の金剛峯寺(こんごうぶじ)を開きということぐらいしか知らなかったのですが、讃岐国(さぬきのくに)(今の香川県)生まれで、同じ国の小豆島で修行を積んだんですね、納得。

弘法大師も見たであろう宝生院のシンパク。もしかするとその時代には既に大きくなっていて、弘法大師もこの木に魅了されて一つの修行や祈りの場としたのかな?と思ったりします。

今までどれだけ多くのお遍路さんや島の人たちを元気づけ癒してきたことでしょう。

 

旅のアイデア

寒霞渓
名勝寒霞渓(2014年3月撮影©MY)

エンジェルロード
エンジェルロード(2014年3月撮影©MY)

両親が旅行したときは、小豆島で他にどんな所へ行ったんだろうと気になって聞いたところ、こんな写真が届きました。左の写真は「名勝寒霞渓」だそうです。また漢字が難しすぎて読めない・・・「かんかけい」って読むんですね。

ちなみに寒霞渓は小豆島八十八ケ所霊場のルートに入っているみたいです。

右の写真はエンジェルロード。引き潮の時に道が現れるそうです。

 

今回の旅を振り返って

宝生院のシンパクは、写真からでも大きな生命力が感じられますが、木が発するエネルギーや、木を取り巻く空気や光、小枝の動き、植物の香り、周辺の音などは、やはりその場に行った人だけしか味わえないものです。この記事ではそれらを想像することしかできません。

でも、この木について知ろうとして調べたり、考えたり、わからないことが多くて大変だと思ったり、そうした道のりを楽しむことができました。

今まで、小豆島と言えばオリーブと「二十四の瞳」というイメージしかなかったのですが(すみません)、宝生院のシンパクを通じて、古墳時代や弘法大師ゆかりの遍路道に想いを馳せ、小豆島の歴史の奥深さや文化に、ほんのちょっとだけ触れられたような気もします(自己満足)。今回は気候風土については注目しなかったのですが、1600年もの時を経てもシンパクが大きな生命力を持ち続けているのは、小豆島の自然があってこそなのかもしれませんね。機会があったら是非行ってみたい場所になりました。

この記事を読んでいただいてどうもありがとうございました。

主な出典:
小豆島旅ナビ 
うどん県旅ネット
第28回巨木を語ろう全国フォーラム開催記念-巨樹・巨木林の健康診断「宝生院のシンパク」の健康診断(PDF)
文化庁・国指定文化財等データベース 
小豆島観光ガイド土庄町商工観光課
小豆島八十八ケ所めぐり
筑波実験植物園
サカタのタネ園芸通信
鶴岡八幡宮
小豆島物語
宝生院小豆島霊場第54番札所

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