飯山市・神戸の大イチョウ-小菅の里の謎-

長野県飯山市神戸の「大イチョウ」

長野県天然記念物

樹高約36m。幹周約14.7m。

iiyama-godo-ichou-torii
写真: 2018年9月撮影©MY

台風19号による災害のお見舞い

この記事を書き始めてすぐに、台風19号が上陸し各地に甚大な被害をもたらしたことを知りました。

被災された方々に心からお見舞い申し上げるとともに、一日も早い復興をお祈りいたします。

千曲川の氾濫によって飯山市も大きな被害を受けたとのことで、心配しております。本格的な寒さに向かう時節、皆様どうぞご自愛くださいませ。

飯山市を応援したい方への情報

信州いいやま観光局のサイトの「トピックス・お知らせ」のページに、11月13日付で「飯山応援宿泊プラン第2弾」というお知らせ記事があります。

飯山市の観光施設は通常営業を再開しているそうです。飯山を訪れて復興を応援しましょう!

信州いいやま観光局のサイト「トピックス・お知らせ」

出発

皆様、こんにちは。

長野県飯山市にある神戸の大イチョウは、まずその大きさに圧倒されますが、この大イチョウの前の鳥居にも興味を持つのは私だけでしょうか。

鳥居があっても神社はなく、鳥居の神額(しんがく)と呼ばれる部分には「三寳大荒神(さんぼうだいこうじん、さんぽうだいこうじん」と書かれています。神様の依り代なのでしょうか。由来や伝説などを調ベる旅に出発!

長野県最大の木

神戸(ごうど)の大イチョウのある場所は、飯山市瑞穂(いいやましみずほ)で、神戸は瑞穂に含まれている地区で、飯山市瑞穂神戸という表記も見られます。

この大イチョウは長野県の天然記念物に指定されているほか、国の重要文化的景観に選定されている「小菅の里及び小菅山の文化的景観」の範囲に含まれています

神戸の大イチョウの樹齢は推定500年、樹高約36m。幹周約14.7mだそうです。樹齢に関しては、参考にした紹介記事によって違いがあるので、この点については後で取り上げてみたいと思います。

神戸の大イチョウは、非常に背が高く(約36m)、長野県で最大の木だそうです。1917年出版の『日本伝説叢書・信濃の巻』(藤沢衛彦編、日本伝説叢書刊行会)によれば、黄葉の頃には4里(約15.6キロメートル)離れたところからも見えると言われていたそうで、現在も遠景から大イチョウの写真を撮っている方が結構いらっしゃいます。

大イチョウの前の鳥居の神額には「三寳大荒神」と書かれており、根本に石の祠があります。また、木下には赤い屋根の木造の祠もあるようです。祠がふたつあるというのは、何か意味があるのでしょうか。

godo-icho-hokora-ishi
神戸の大イチョウと石祠
2018年9月撮影©MY

幹には注連縄(しめなわ)が張られていますので、神聖な木なのですね。

godo-icho-hokora-ki
神戸の大イチョウと木の祠
2018年9月撮影©MY

見ごろはいつ?

「黄葉も落葉もこの地方では最も遅いとされる。」とのことで、葉が黄金色に輝く大イチョウの見ごろは、毎年11月下旬ごろだそうです。この頃にはライトアップされる日もあるので、見に行かれる方はチェックしましょう!

2019年のライトアップ予定:11月23日(土)・24日(日)。正式に決まるのは11月中旬だそうです。どうぞ再確認してください。

落葉が始まって地面が黄金色の葉で埋め尽くされた風景もいいですよね。

個人的には、落葉樹の見ごろは四季折々にあると思います

圧巻の大きさを誇る木だけに、葉が青々としている時期もまた、自然の偉大さを実感できるはずですし、落葉後は枝の形状がよく見えます。

三寳大荒神(三宝大荒神)とイチョウ

神戸の大イチョウにある石祠には、火伏の神様である三宝大荒神が祀られているそうです。

三宝は、仏・法・僧のことであり、この三宝を守る神が「三宝荒神」だとするのが一般的な解釈のようですが、生活に不可欠な土・火・水を三宝とするという説もあります。

仏・法・僧の三宝に関して、仏教とのつながりは、修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ)、つまり役行者(えんのぎょうじゃ)が三宝荒神を感得したことによるとされています。

神戸の大イチョウに三寳大荒神の祠ができた時期がいつかという情報は得られませんでしたが、役行者は小菅の里とゆかりのある人物なので、後ほど詳しく調べてみましょう。

三宝荒神は、不浄を嫌い、火が最も清浄なものであることから、家の中で火のある場所、かまどの神様として祀られたという説、荒神は火伏せの神であることから、かまどの神として信仰されてきたとする説などがあります。

また、イチョウは防火性の高い木として知られています。火災になると水を噴くという言い伝えもあるほどで、火伏(ひぶせ)の木と呼ばれているイチョウのある神社やお寺はいくつもあります。実際は水を噴くというより、葉に水分が多く含まれていることによる耐火性のようです

仙台市にも三寳大荒神を祀り火伏の木として植えられたイチョウがあります。

「大荒神」の「大」の説明は見つからなかったので、これは謎のままにしておきます。

雪だめしの木 

「雪だめし」とは聞き慣れない表現ですが、神戸の大イチョウの落葉の仕方でその後の雪の降り方がわかるという言い伝えだそうです。落葉が少しずつなら、雪も徐々に降り、一度にたくさん落葉するときは急に大雪になるとのことで、落葉と降雪のイメージが重なり、そこだけの時間が流れているかのようです。

「雪例樹(ゆきためしぎ)」という風流な呼び方もあるようです。

このように木を通じて雪の降り方を予想するというのは、他に例のない、この神戸の大イチョウだけにまつわる特別な伝承かもしれません。

イチョウの落葉の仕方について調べてみると、イチョウが一斉に落葉する現象は、良くあることらしく、数時間で全てが落葉してしまうこともあるそうで、それは落葉のメカニズムに原因しているそうです。葉柄にできる離層という組織が弱くなって落葉するそうですが、なぜ一斉に離層ができるかは解明されていないようです。「日本植物生理学会-みんなのひろば-植物Q&A」登録番号2791の回答がわかりやすいです。

母乳祈願の木

神戸の大イチョウには、瘤(こぶ)のようなものがいくつもできており、それが長く伸びて垂れ下がっている形が乳房に似ているということから、母乳祈願の風習があります

明治20年(1887年)出版の『信濃奇勝録・巻之五』(井出道貞著他)では、小菅の七石八木と称されるものの中に、「乳木(ちちき)」という名で含まれています

『イチョウ巨樹の乳信仰-歴史研究の資料に関する課題』(2018年、児島恭子)によると、「乳イチョウ」と呼ばれる木は全国に200本以上あるそうです。

また、母乳祈願には、樹皮を削ったものや枝葉を煎じて飲む、お供え物をする、といった様々な方法があることが知られていますが、神戸の大イチョウでは特別な方法が風習となっているわけではないようです。

垂れ下がった部分はサイト検索では、ほとんどの場合、気根と紹介されていますが、実際は根ではないようです。これからの研究によって詳細が明らかになっていくことでしょう。

「日本植物生理学会-みんなのひろば-植物Q&A」登録番号0575の回答がわかりやすいです。

この部分は「乳柱」とも、「乳(チチ)」とも呼ばれ、英語でもフランス語でも「Chichi」のままです。

前述の『信濃奇勝録・巻之五』には、「最長するものは地*入て丸き柱を立てるが如し地に届*るは又枝葉を生*珍奇の神木なり」とあり、挿絵には本当に柱のような乳柱が描かれています。

注:*は読めない文字

godo-icho-e1887
国立国会図書館デジタルコレクションより、『信濃奇勝録. 巻之5』(井出道貞 等著[他]、井出通、1887年)-コマ33-

神戸の大イチョウと秋葉三尺坊:樹齢を推定してみる

神戸の大イチョウの樹齢は、「推定500年」や「500年超といわれる」のように、約500年と紹介されていることが多いですが、資料によっては、「約700年」、「約1500年といわれる」、「千数百年といわれる」と書かれていることもあります。この大きな差はどうしてなのでしょうか?

由来から推定してみると・・・

神戸の大イチョウの由来は次のように伝えられているそうです。

「中世より小菅庄内の良蔵坊門前の木と伝えられている。秋葉三尺坊という人物が良蔵坊の主となった際にこのイチョウを植えたという伝説がある」

『文化的景観「小菅の里」』,p.274(平成26年、監修・編集・発行:長野県飯山市教育委員会) より引用

「小菅庄」というのは中世の頃の小菅の里の呼ばれ方だそうです。秋葉三尺坊が誰であるかわかれば、イチョウの樹齢も推定できるはずですね。

秋葉三尺坊は実在した人物と言われ、年代と主要な場所がはっきり示されている場合もあります。

  • 信濃の戸隠村の岸本家で生まれた。名前は周国(かねくに)
  • 4歳で越後蔵王権現に修行に出かけた修験者。
  • 10歳の時に戸隠に戻った。
  • 後に、越後蔵王権現の十二坊の内の三尺坊で修行をした(または住職となった)ことから三尺坊と呼ばれるようになった。
  • 27歳の時に神通力を得て迦楼羅天(かるらてん)に神変した

生まれが778年、修行に出た4歳の時が782年とされています

秋葉の名の由来としては、迦楼羅天になった三尺坊が白狐に乗って舞い降りた場所が、遠州(静岡県)の秋葉山であったこと、そこに現れたガマガエルの背中に「秋葉」の文字が浮かんでいたことなどが伝えられています。

秋葉三尺坊が小菅の良蔵坊にいた時期はわかりませんが、778年生まれということから、800年~810年頃に植えたとして、イチョウの樹齢は約1200年ということになります

秋葉三尺坊の到来時期を13世紀(1294年)、または16世紀(1571年)とする文献もあるそうです。

でも、愛知県の福厳寺に540年続く火渡り神事である「あきば大祭」の由来によると、秋葉三尺坊は15世紀にはお寺の守護神となっていたはずですし、16世紀には上杉謙信が秋葉三尺坊大権現を祀る秋葉神社を創建していることからも、秋葉三尺坊の到来時期は15世紀より前のことのように思われます。

ひとつ注意しておきたいことは、神戸の大イチョウの由来で、「秋葉三尺坊という人物が良蔵坊の主となった」という言葉です。「秋葉」の名前は迦楼羅天になった三尺坊が着いた秋葉山から付いたのですから、良蔵坊にいたのが迦楼羅天になる前なら、秋葉の名は無く三尺坊という名だけだったはずです。

神戸の大イチョウの由来で秋葉三尺坊の名が語られ始めたのは、三尺坊が良蔵坊にいた時期より後で、その頃には秋葉三尺坊の名前が既に広く知られるようになっていたと考えられるのではないでしょうか

ここでイチョウの樹齢についてもう少し考えてみたいと思います。「生きた化石」と呼ばれるイチョウは、氷河期に絶滅したと考えられていたものが中国で見つかり、鎌倉時代から室町時代にかけて日本に伝わったものであるというのが現在の一般的な見方です。

この見方に従えば、中国でのイチョウの普及が11世紀で、すぐに日本に伝わったとしても、日本のイチョウの木は、最も古くても樹齢は約1000年ということになります

しかし、日本には樹齢が1000年以上というイチョウが何本もあって、由来が伝えられているものも多いですし、イチョウの中国での発見の時期にしても、日本伝来時期にしても、それは現在まで得られている情報にすぎません。イチョウに関する更に古い記述や遺物が見つかれば、もっと昔の時代まで遡れることになります。

神戸の大イチョウも由来の言い伝えから推定する樹齢が約1200年であってもいいですよね。

言い伝えの意味や歴史背景を探ることで、昔の人々と私たちが時を超えて心の中で交流できるのではないでしょうか。

いつ頃から言い伝えが始まったのか(あるいは内容が変わったのか)、それはなぜだったのか、当時の人々の思いを知ることができるかもしれません。

小菅の「七石・八木」から考えてみると・・・

小菅には「七石・八木」(7つの石と8本の木)と呼ばれるものがあって、そのうちのいくつかが現在まで残っているそうですが、神戸の大イチョウは「乳木」という名で八木の中の1本になっています。

この「七石・八木」を記録している文書として次の2つが知られています:

  • 『小菅神社伝記』(文化14年・1817年に複製されたもののようで、原本の成立年はもっと古いようです)、
  • 『信濃奇勝録』(1834年脱稿、明治20年・1887年出版)

残念ながら、この2点の資料からは時代をあまり遡れないので、「七石・八木」からの樹齢の推定は断念します。

小菅の古い絵図を見てみると・・・

小菅の霊場のかつての様子を描いた絵図が2点あります。

どちらもパンフレットや報告書などの中に含まれているため、このブログに絵図だけコピーすると著作権上問題があるので、ご興味のある方は次のサイトからダウンロードしてご覧ください。 全国遺跡報告総覧

『文化的景観「小菅の里」』平成26年(2014年)、監修・編集・発行:長野県飯山市教育委員会)
PDFのページ表示で4ページ目と5ページ目にあります。

「延享3年小菅山元隆寺絵図」(絵図の中では、「信濃国高井郡小菅山絵図」となっています)延享3年=1746年

このブログでは、以下、「1746年・延享3年元隆寺絵図」とします

「信州高井郡小菅山元隆寺之図 永禄九年」(絵図の中では、「信濃高井郡小菅山元隆寺之図永禄九年」となっています)永禄9年=1566年

このブログでは、以下、「1566年・永禄9年元隆寺絵図」とします

この絵図は、小菅パンフレット(PDF)にイラスト風のカラーバージョンがあります。

信州いいやま観光局の「小菅の里を歩く」のページからダウンロードできます。

絵図はパンフレット2ページ目。

注:元隆寺は、明治時代の神仏分離によって小菅神社となる前の名称です。

この2点の絵図には「七石・八木」という名称は入っていませんが、複数の石と木が名前入りで描かれています。

「1566年・永禄9年元隆寺絵図」で気付くこと:

  • 神戸の地名が記入され、その下側に「龍光坊」の名とともに坊の絵が描かれているが、「良蔵坊」の名は無い。龍光坊の壁も描かれており、その内側と外側に樹木が描かれているが、イチョウだと判別できるものはない。ただ、小さな丘のようなものの上に比較的大きな木が1本描かれている
  • それとは逆に、八木に入っていない木も含め、「五本杉」、「太平杉」、「クラカケ松」、「桂木」といった名称まで記載されている樹木もある。
  • 「龍光坊」に並ぶように「三大明神」の建物も描かれている。神戸の大イチョウの三寳大荒神と三大明神と何か関係があるのだろうか?

イチョウとはっきりわかるものは描かれていませんが、1566年にはイチョウが存在していたと仮定して、描かれていない理由を考えてみます:

  • 絵を描いた人はイチョウの存在を知らなかった
  • 目立つほどの存在ではなかったので、描かなかった
  • 何らかの理由があって、描かなかった(存在を隠しておきたかった、描くのを恐れた、など)

次に「1746年・延享3年元隆寺絵図」ですが、拡大して見ると詳細がぼやけてしまいますが、『文化的景観「小菅の里」』の説明も参考にして見ると、次の点が注目されます。

  • 「神戸のイチョウ」とみられる大木が描かれ、その脇に「龍蔵坊」の名が書かれている。
  • 「イチョウ」や「乳木」など文字での記入は無い。
  • 「三大明神」も無く、イチョウだけが山裾にあるように描かれている。

つまり、1746年には、イチョウはかなり大きくなっていたことがわかりますが、それ以外の情報(その木がイチョウであることなど)は伝えようと思わなかったのではないかと考えられます。

神戸の大イチョウと長光寺の大イチョウとの関係から・・・

神戸の大イチョウが元になって成長したと言われるイチョウがあります。木島平村穂高(きじまだいらむらほたか)にある長光寺の大イチョウです。

秋葉三尺坊が神戸のイチョウから枝を取り、杖として持ってきたものを刺したのが長光寺のイチョウだと伝えられています。杖を逆さに刺したことからイチョウの上の方が太くなり、「逆さイチョウ」とも呼ばれるそうです。

この長光寺の大イチョウは、樹齢が700年と言われています

神戸の大イチョウも長光寺の大イチョウも同じ秋葉三尺坊が植えたものなら、長光寺のイチョウも樹齢が1200年ぐらいと計算されますが、異なった見方もできます。

  • 神戸のイチョウも長光寺のイチョウも、樹齢が近いのかもしれない。
  • どちらも樹齢700年なら、秋葉三尺坊の実際の出生は14世紀なのかもしれない。
  • 秋葉三尺坊の名前で伝わってしまったが、実際は別の僧によるものだったのかもしれない。

秋葉三尺坊がイチョウを植えたと伝えられているのは、神戸と長光寺のイチョウだけでしょうか?少し調べただけですが、他のイチョウで秋葉三尺坊が植えたとされているものは見つかりませんでした。長光寺は神戸の大イチョウから数キロのところにありますので、秋葉三尺坊とイチョウの話はこの地域だけに伝えられてきたのかもしれません。

樹齢についてのまとめ(秋葉三尺坊が植えた場合)

  • 秋葉三尺坊が778年生まれだとして、20歳頃に植えたとしたら、樹齢約1220年
  • 秋葉三尺坊の到来時期が13世紀なら、樹齢約820年~720年
  • 秋葉三尺坊の到来時期が16世紀なら、樹齢約520年~420年(ただし前述のように到来時期が16世紀の可能性はかなり低いと考えられます)
  • 絵図の中では「七石・八木」という示され方はされていない。
  • 「七石・八木」に関する現存する最古の記述が『小菅神社伝記』だとして、成立年がよくわからないので、樹齢を計算できない。

補足・・・

イチョウの幹は1年に約2ミリ成長するとみられているようですが、一定した成長をするとは限らず、また、乳柱が多かったり、株立ちになっている場合は、幹周から樹齢を推定するのは難しいそうです。

秋葉三尺坊がイチョウを植えた理由は?

秋葉三尺坊はなぜイチョウを植えたのでしょうか?

可能性その1「ぎんなんを食べるために植えた」

ぎんなんは医薬品として使われていたそうなので、可能性として入れておきます。

ただし神戸の大イチョウは雄木なので、ぎんなんはできません

でも、ぎんなんからは雄雌の区別ができないと思いますし、挿し木をした場合でも、イチョウに雄木と雌木があるのを知らなかっただけかもしれません。

可能性その2「防火のために植えた」

神戸のイチョウは、現在では火伏のイチョウとして知られていますが、それが目的なら、植えた時にイチョウの耐火性が知られていたことが前提になるはずです。

つまり、イチョウが火災にあっても燃えにくかったということを自らが体験で知っていたか、あるいはそうした話が伝えられて知っていたことになります。

様々な例を調べてみましたが、イチョウが水を噴いたという言い伝えは、江戸時代から広まったようです。有名な本能寺の火伏のイチョウの話も、本能寺の変の時のことではなく、天明の大火(1788年)でのことのようです。神戸のイチョウが植えられた時期が、日本でイチョウが広まったとされる室町時代だとしても、イチョウを防火のために植える習慣があった可能性は低いのではないでしょうか。

ところが、秋葉三尺坊自身が火伏と関係しています。

秋葉三尺坊は秋葉大権現であり、火伏せの神様として知られ、全国には秋葉大権現を祀る秋葉神社が約400あるそうです。なぜ火伏の神様になったのかについては、火などの七難を防ぐ、火防の霊場を開いた、大火から人々を救った、などの様々な言い伝えがあります。

ただ、秋葉三尺坊が火伏の神として全国に広まったのは、江戸時代のようです。

神戸の大イチョウに関して、「古時遠州秋葉三尺坊此土に来り、良蔵坊の主となり居ること数年、其際境内鎮守三寶荒神の側に此銀杏樹を植ゆと。」いう記述があることがわかりました。(「レファレンス協同データベース」、管理番号:県立長野-18-069)転記用URL

この記述だと、神戸にイチョウを植えたのは秋葉三尺坊が遠州(静岡県)の秋葉山に舞い降りた後になりますが、先ほど述べたように、神戸に三尺坊がいた時期が秋葉山に降りる前で、秋葉の名前は後に付いたと考えることにして、ここでは「境内鎮守三寶荒神の側に」という部分に注目したいと思います。

前述の「1566年・永禄9年元隆寺絵図」では、「龍光坊」の上の方の小さな丘らしきものの上に比較的大きな木が1本描かれ、そのすぐ近くに「三大明神」と記されています。「三大明神」が「三寶荒神」であれば、「境内鎮守三寶荒神の側に」という記述は、絵に描かれた様子と一致します。記述のある資料は明治期に書かれたようですが、「1566年・永禄9年元隆寺絵図」の方は実際の成立年が疑問視されてはいるものの、もし絵の中に記されている永禄9年(1566年)が正しければ、イチョウは既に存在していた可能性があります。もちろん、絵だけではイチョウかどうかは全く判別できないのですが・・・

いずれにしても、火伏の木であるイチョウを火伏の神となる人物が植えるということに、何かひっかかるものを感じます。

可能性その3「墓標として植えた」

墓標として植えたと伝えられているイチョウが全国には何本かあるようですが、神戸のイチョウの場合は、由来の内容からすると、墓標というのは可能性が低いように思われます。

可能性その4「何か意味や目的があって植えたが、今ではわからなくなってしまった」

ぎんなんや防火というイチョウの特徴に理由があったというよりも、元になったイチョウに理由があったのではないかとも考えられます。

  • 長光寺の大イチョウが神戸の大イチョウに由来しているように、元隆寺と関係の深いお寺や神社のイチョウから挿し木をした。
  • 元になったイチョウに関わった人物との縁をつなぎたかった。

あるいは、イチョウという木に対する特別な見方や感情などがあった(信仰的な理由など)。

  • イチョウにまつわる言い伝えがあった。
  • イチョウを何かの象徴にしたかった。
  • イチョウの外見(葉の形など)に意味があり、そのために植えた。

医薬品としての利用や火伏のように、多くの人々に知られていたことが理由ではなく、植えた人(または植えさせた人)の個人的な考えや思いによって植えられた可能性もあります

秋葉三尺坊がいた良蔵坊とは?

さて、「秋葉三尺坊が良蔵坊の主となった際にこのイチョウを良蔵坊門前に植えた」という伝説の中に出てくる「良蔵坊」について調べてみたいと思います。

前述の2点の絵図のうち、「1566年・永禄9年元隆寺絵図」には「良蔵坊」は無く、神戸の地名の近くに「龍光坊」の名があります

「1746年・延享3年元隆寺絵図」の方には神戸のイチョウとみられる大木が描かれ、その脇に「龍蔵坊」の名が書かれています。

「龍蔵坊」と「龍光坊」は同じ坊のことだと思われますが、「良蔵坊」の存在はどのように調べたらいいのでしょうか?

『文化的景観「小菅の里」』によると、良蔵坊は元隆寺の坊のひとつで、良蔵坊跡と伝わる神戸遺構群があるそうです

良蔵坊についてはこれ以上の情報が得られませんでしたが、神戸の大イチョウが2015年に国の重要文化的景観に選定された「小菅の里及び小菅山の文化的景観」に含まれているのは、ただ単に雪だめし木・乳の木という2つの呼ばれ方を持つ巨樹というだけでなく、小菅の修験霊場の歴史の構成要素だからということに気付きます。

大イチョウのある神戸(ごうど)と小菅との関係について調べてみましょう。

飯山市の神戸(ごうど)周辺には遺跡が多い

飯山市には遺跡が多く、市のサイトでは分布図を約20の区域に分けて紹介しています。1区域には複数の遺構、古墳、城址などがありますから、合計するとかなりの数になります。

神戸周辺で最も大きな遺跡は、宮中(みやなか)遺跡のようです。宮中遺跡では、先土器時代から平安時代までの遺物や、縄文時代後期の石棺墓などが発見されています。

また、神戸は律令制における郡・里・郷において、神戸郷としての存在が知られています。ウィキペディアの「神戸(民戸)」の記事では次のように説明されています。

「神戸(かんべ/じんこ)とは、古代から中世の日本において特定の神社の祭祀を維持するために神社に付属した民戸のこと。」

「神戸(民戸)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』. 2017年12月18日 (月) 15:07 UTC , URL :https://ja.wikipedia.org/wiki/神戸_(民戸) より引用

大イチョウのある神戸の読み方は「ごうど」ですが、ある資料の中に神戸郷の名が記載され「かんべ」というふりがなが付いていたので、読み方が途中から変わったのかもしれません。地元の方ならご存知なのでしょうが、外部の通りすがりのウェブ旅人である私にはこれ以上のことはわかりません。

ただ、同じウィキペディアの記事には、次のようにも書かれています。

「神社の土地である「神戸」を由来とする神戸(かんべ/ごうど/こうべ/じんご)と呼ばれる地名または姓が今日においても広く用いられている。」

「神戸(民戸)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』. 2017年12月18日 (月) 15:07 UTC , URL :https://ja.wikipedia.org/wiki/神戸_(民戸) より引用

以上のことから、神戸は律令時代には神社に属していた場所だったと言えます

小菅の里の「神戸」は結界の村だった

神戸という地名が神社と関係があったことがわかりましたが、ではなぜ小菅の里の他の地域ではなく、今イチョウのある地域にこの名前が付いたのでしょうか。

神社結界地は4か所あり、それぞれ神域への入口となる鳥居が設けられていて、その結界地の一つが神戸口でした

『長野県飯山市小菅総合調査報告書-市内遺跡発掘調査報告 第二巻 調査・研究編』(2005.3長野県飯山市教育委員会)(P.51-56)で紹介されている1542年の「信濃国高井郡小菅山八所権現井元隆寺由来記」の抜粋(現代語訳付き)によると、

  • 山麓に小菅山の神領である村が7つあり、この7つの村は結界神堺で殺生禁断の地だった。
  • 結界を示すために、西、北、南に鳥居が建てられていて、南の鳥居は神戸口と小見と呼ばれるところにあった。
  • 境内には古い木が多い(ただしイチョウについてはふれられていない)
  • 1365年に小菅山に火災があり仏殿などの建物は全て焼失したが、1368年から1388年までに再建され、ほぼ元通りになった。

また、『長野県飯山市小菅総合調査報告書-市内遺跡発掘調査報告 第一巻 概要編』(2005.3長野県飯山市教育委員会)によると、小菅山に入るには3つのルートがあり、そのうちの南ルートが神戸から風切峠を登って桂清水につながるものだったとのことで、神戸は、結界の地であると同時に小菅山への道の入口のひとつだったということになります。同資料の11ページに大変興味深い説明があります。

「神戸の地名は神途にもつながり、こちらが小菅の古い時期の正規の入口であった可能性もあります。神戸から小菅の集落に行くに際しては風切峠を越えますが、そこに様々な石仏がおかれ、悪いものが入ってこないようにと集落を守護しています。」

『長野県飯山市小菅総合調査報告書-市内遺跡発掘調査報告 第一巻 概要編』,p.11(2005.3長野県飯山市教育委員会) より引用

神戸のイチョウがいつ植えられたのかはわかっていませんが、植えられた場所は、小菅山という神聖な場所への入口だったのです。

小菅山からの眺望に隠された秘密

さて、先ほど神戸は小菅山に入る3つのルートのひとつの入口だということがわかりました。ただ、観光マップや絵図では、小菅山の麓から山の上に向かってまっすぐな道があり、上の方に行くと少し曲がりくねった道になっています。神戸は中心部から離れたところにあり、神戸から小菅山へのルートがあったことさえ、よくわからなくなっています

しかし、次の2点の資料を調べると、更に驚くことがあったのです。

  • 『長野県飯山市小菅総合調査報告書-市内遺跡発掘調査報告 第一巻 概要編』(2005.3長野県飯山市教育委員会)
  • 『文化的景観「小菅の里」』平成26年(2014年)、監修・編集・発行:長野県飯山市教育委員会)

このまっすぐな道は東西方向に延びているそうですが、中世以前は、この道からはかなり離れた場所にある神戸から風切峠を通って行く南北ルートが中心だったそうです。後に作られた東西の直線的な参道によって、小菅の霊場の構図が大きく変化したことが明らかにされています。

しかも、この東西に延びる参道から西方向の正面に妙高山が眺望できるため、この眺望は意図的に取り入れられたのではないかと考えらえていました。

妙高山は新潟県にあり、その名前は「須弥山(しゅみせん)」に由来すると言われています。須弥山とは、仏教の世界(宇宙)観において、中心にそびえる高い山のことだそうです。サンスクリット語の「スメール(シュメール)」が須弥山の語源だそうで、この須弥山という言葉の訳が妙高山とのことです。

妙高山は708年に裸行(らぎょう)上人によって開山されたのが始まりとされ、戸隠山、白山とともに、山岳信仰の修験道場として知られました

妙高山の信仰の詳細については、またいつか調べる機会があることを期待して、小菅の参道に妙高山眺望が取り入れられる前、つまり神戸から風切峠を通っての南北ルートからの小菅山の時代に注目することにします。

まず、小菅山について信仰の地としての位置づけを見てみましょう。

小菅山の開山の由来は次のように伝えられています。

役行者(役小角)が仏法を広める場所を求めて諸国を回り戸隠山にいたところ、五色の雲が東山(小菅山)に立ったので、そこに向かって登ると谷で翁と出会います。この翁はこの地主神である飯縄明神であると言い、この地で仏法を広めて欲しいと告げると姿を消しました。すると東の峰に岩窟があったので、役行者がその中で祈っていると小菅権現が現れ、自分は馬頭観音の化身である摩多羅神(またらじん、またらしん、まだらじん)であること、熊野・金峯・白山・山王・立山・走湯・戸隠の七所の神山に来て、神力を助けていると告げました。そこで役行者は小菅権現を主神とし八所大権現を祀りました

摩多羅神である小菅大権現は素戔鳴尊(スサノオノミコト)でもあるとされています。素戔鳴尊から馬頭観音や牛頭天王(ごずてんのう)になっていったようですが、素戔鳴尊の本地は薬師如来だそうです。

・・・まとめたつもりですが、よくわかりませんね。飯縄明神は最初に現れた神様ですので別として、小菅権現と馬頭観音からの話は次のようになります。

摩多羅神=馬頭観音=小菅大権現=素戔鳴尊=薬師如来

どうしてこのように複数の神様仏様が同一に考えられているのでしょうか?

それは、仏教が伝来して、日本にもともとあった信仰(神々)と融合していく過程で、いわゆる神仏習合という考え方が生まれたからのようです。

ウィキペディア「本地垂迹」の記事によると、

「本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。」

「本地垂迹」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』. 2019年6月12日 (水) 10:52 UTC, URL :https://ja.wikipedia.org/wiki/本地垂迹 より引用

さて、妙高山が眺望できるように東西方向を結ぶ参道ができる前は、斑尾山(まだらおさん、まだらおやま、まだらさん)が眺望の中心だったようです。

小菅の奥社からは妙高山がほとんど見えず、眺望は、中央に斑尾山、左に飯縄山、右に黒姫山が並びます。また、神戸から風切峠を通っての南北ルートが奥社につながっていたことも、その当時は妙高山の眺望は考慮されていなかったことを意味しています。

ではなぜ斑尾山が中心だったのでしょうか?

先ほど、小菅神社の由来で、役行者は小菅権現(=摩多羅神)を主神として祀ったということがわかりました。

斑尾山は、摩多羅神(またらじん、またらしん、まだらじん)と同音であり、斑尾山の信仰の対象は薬師如来だそうです。

先ほどの「=」式で見ると、

摩多羅神=薬師如来です。

つまり、小菅山と斑尾山は同じ神様仏様を信仰していることになりますから、小菅山から斑尾山が中央に見えるように構成されていたと考えられているのです。

では、なぜ南北ルートを維持せずに、東西ルートの参道「軸線」から妙高山を望むように変わったのでしょうか?

上杉謙信と景勝にとって大切な場所だった

小菅山は、平安時代後期には、戸隠、飯縄と並ぶ北信濃の3大修験霊場のひとつとして知られるようになっていました。その後、14世紀の南北朝時代の戦乱、15世紀に起きた小笠原持長と泉持重との戦い、そして川中島の戦いの中で、社殿や坊(中世には、上院、中院、下院にそれぞれ10~16の坊があったそうです)は何度も焼失と再建が繰り返されました

こうした状況の中で、小菅とゆかりの深い名将として上杉謙信が挙げられます。謙信は、戸隠・飯縄・小菅を山岳信仰の3山として大切に考えていました

また、小菅には謙信にまつわる「隠れ石」というものがあります。川中島の戦いで不利になった謙信がこの石に隠れていると、信玄が追って来ます。すると突然大岩が崩れ、大木が倒れてきたため、信玄は恐れをなして去っていったと伝えらえています。

kakureishi
隠れ石
「小菅神社(飯山市)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』, CC 表示-継承 3.0, user:KMR, File:P8220524 Kakure-ishi.JPG

永禄4年(1561年)の川中島の戦いで、武田軍によって火がつけられ、元隆寺は本堂以外が全て焼失したと伝えられており、謙信は永禄7年の願文の中で、小菅が退転したと記しています。「退転」とは、壊滅状態という意味で使われているようです。

そのため、上杉家の家督を継ぎ小菅庄の領主となった上杉景勝によって元隆寺の大規模な復興が行われた際に、越後の妙高山を拝するように東西ルートの「軸線」が引かれ、小菅山の新しい構図ができたと考えられています。

ちなみに妙高山はこの軸線からは西側に見え、仏教の西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)のイメージと重なるそうです。

ところで、小菅山の由緒を記録した最古の文献は、天文11年(1542年)の「信濃国高井郡小菅山八所権現井元隆寺由来記」で、この中に神戸口に結界を示す鳥居があったことが書かれています。

前述の「1566年・永禄9年元隆寺絵図」には、「龍光坊」の名と合わせて坊の外観が描かれていますが、鳥居は描かれていません。この絵図の示すものが全て正しいとは考えられていませんが、永禄4年(1561年)の川中島の戦いの前後に、鳥居に代わるものとしてイチョウが植えられた可能性があるかもしれません

「1746年・延享3年元隆寺絵図」の方にはイチョウとみられる大木が描かれているので、1566年頃か、それ以前にイチョウが植えられたとしたら、この絵図の1746年には樹齢が少なくとも180年で、かなりの大木になっていたと考えられます。

また、イチョウが永禄4年(1561年)の川中島の戦いよりずっと前、例えば秋葉三尺坊が8世紀に植えたと仮定してみましょう。小菅山が戦争で何度焼けてもイチョウだけが残っていたとしたら、植えた最初の目的はともかく、後に「火伏の木」として祀られるようになってもおかしくありませんね。

上杉謙信が秋葉三尺坊大権現を祀る秋葉神社を創建したことについては既に述べましたが、上杉謙信の秋葉三尺坊大権現と飯縄権現に対する信仰について触れておきたいと思います。

謙信の兜のひとつの前立てに飯縄権現の像が付いています。

謙信の前立てに限らず、その他の飯縄権現の像や絵には、ある一定の表現形式、つまり飯縄権現であることがわかりやすいような特徴です。嘴(くちばし)と翼があるカラス天狗の姿で、狐に乗っています

そしてこれらの特徴は、秋葉権現(秋葉三尺坊)の像や絵にも見られ、ほとんど区別できないと言われています。

小菅霊場の由来では、役行者の前に最初に現れたのは飯縄明神です。そしてこの地で仏法を広めて欲しいと告げました。役行者は7世紀の人物です。地主神である飯縄明神は、仏様の仮の姿である飯縄権現となり、秋葉権現信仰が広まったのは、16世紀の謙信の時代の頃からのように思われるのですが、どうなのでしょうか?

ちょっと寄り道

「乳イチョウ」は万葉集に出てくる「ちちの木」?

万葉集には「ちちの実」という言葉が含まれた歌が2首あるそうです。この「ちちの実」が付く「ちちの木」が何であるかはまだ解明されていませんが、イヌビワ説とイチョウ説があります

イチョウだとすれば、黄葉の美しさなどを示す歌が他にあってもよさそうですが、奈良時代にも平安時代にもイチョウについての歌がないということから、イチョウはまだ日本に存在していなかったと考えられています

しかし、現在巨木となっているイチョウが平安時代に存在していたとしても、当時はまだ目立つ存在ではなかったはずです。また、イチョウ巨木は近畿地方にはわずかしかなく、都から離れた土地に多いということに注目すると、都の人々はまだ小さかったイチョウの存在を知らなかったという可能性はないでしょうか?

ただし、「ちちの木」がイチョウだと考えることには次の点から無理があります。

まず、イチョウに乳柱ができるということは、木がかなり大きくなった段階のはずなので、平安時代にイチョウが存在していたとしても、乳柱ができるほど大きいイチョウはなかった可能性が高いですし、乳柱のあるイチョウがあったとしたら、そのような奇妙な木に関する記述があってもよいはずです(まだ見つかっていないだけかもしれませんが)。

次に、万葉集で使われている言葉は「実」であって「木」ではないことから、ぎんなんを「ちちの実」とすれば、乳柱に由来する「乳イチョウ」という呼び方との関連性がわかりにくくなってしまいます。

『信濃奇勝録. 巻之5』(井出道貞 等著[他]、井出通、1887年)の神戸の大イチョウの紹介の部分に、次のような説明があります。

「萬葉十九に、知智乃寶乃父能美許等(ちちのみのちちのみこと)とあるを、冠辞考(くわんじこう)に、相模の筥嶺人(はこねのひと)にとひつれば、ちちのみはしらず、ちちの木とは、今いてふといふ木を、これが老いたるは、乳房の如き物の垂るなればいふならん。」

『信濃奇勝録. 巻之5』(井出道貞 等著[他]、井出通、1887年)の神戸の大イチョウの紹介の部分(国立国会図書館デジタルコレクション、000000426723、コマ32) より引用

「ちちのみ」を知らなくても「ちちの木」は知っていたかもしれないと思うのですが・・・

以上のことから、万葉集の「ちちの実」はぎんなんではなさそうですが、奈良時代か平安時代の日本にイチョウが存在していた可能性は残されていると思います。

謎は続く

以上いろいろ調べてみましたが、神戸の大イチョウがいつからそこにあるのかは、謎のままです

植えられた場所が結界の地だったことはわかりましたが、なぜ他の木ではなくイチョウを選んだのかとか、もとになった木をどこから持ってきたのか、どのように持ってきたのかも、わからないままです。

ただ、神戸の大イチョウを見るときは、乳柱がたくさんある巨木だという点にだけ注目するのではなく、小菅山の霊場としての歴史にも思いを馳せたいものです。

神戸の大イチョウへのアクセス

電車とタクシーで

電車での場合は、最寄り駅はJR戸狩野沢温泉駅ですが、そこから5キロ以上離れています。タクシーで約10分。

電車とバスで

飯山駅からだと野沢温泉行き(野沢グランドホテル方面行きのようです)のバスで、神戸入口で下車して徒歩10分だそうです。1日の本数が少ないようなので、時刻表で確認しましょう。戻りは、飯山駅行きのバスになります。

長電(ながでん)バスのサイトでご確認ください。

車で

イチョウの手前に駐車場があります(5台)。

旅のアイデア

旅のプランを練るには、次の2つのサイトがおすすめです。

信州いいやま観光局

飯山市全体の観光情報サイトなので、小菅の里の情報を探す場合は、サイト内検索で「小菅の里」などのキーワードで調べるといいですよ。

おいでなして・KOSUGE

小菅の歴史と文化を大切にする思いが伝わってくる専門サイトです。

樹木の好きな方へ、神戸の大イチョウと合わせて見たい木々の情報です。

  • 小菅神社参道・・・ヤマグワ(別名カラヤマグワ)、イトザクラ(しだれ桜)、それに樹齢300年と言われる杉が180本連なる杉並木、ブナ林。
  • 少し足を延ばして・・・菜の花公園近くの朧月夜の歌碑脇にある松の木:通常の松葉は2本なのに、3本あるそうです。
  • 犬飼神社の神木であるカツラ。
  • 長光寺の大イチョウ。

今回の旅を振り返って

神戸の大イチョウについて、わかったこと、わからなかったことをまとめてみましょう。

樹齢について

秋葉三尺坊が778年生まれなら樹齢1200年以上、13世紀なら、樹齢約820年~720年。

永禄4年(1561年)の川中島の戦いの後に植えられたなら、樹齢約450年。

最終的には不明。

乳の木について

母乳祈願の風習は乳柱ができてから

今は「乳の木」や「乳イチョウ」とは呼ばれていないらしい

祈願の方法は不明

イチョウが選ばれた理由について

不明

イチョウが植えられている場所について

小菅神域の結界であり、南北ルートの入口

三寳大荒神(三宝大荒神)について

小菅山を開山した役行者に由来する三宝と、小菅霊場の由来で役行者の前に最初に現れた飯縄明神と姿が酷似している秋葉三尺坊(秋葉大権現)が火伏の神であること、小菅神社に古くから続いている柱松柴燈神事(はしらまつさいとうしんじ)という火祭りなどが、全て小菅山の信仰の中でつながっていることが、今回の記事を書きながらやっと理解できました。

この記事を読んでいただいてどうもありがとうございました。

 

主な出典(順不同)(本文内に入れたものは省略したものもあります):

  • 『長野県飯山市小菅総合調査報告書-市内遺跡発掘調査報告 第一巻 概要編』,長野県飯山市教育委員会, 2005年
  • 『長野県飯山市小菅総合調査報告書-市内遺跡発掘調査報告 第二巻 調査・研究編』,長野県飯山市教育委員会, 2005年
  • 『文化的景観「小菅の里」』,長野県飯山市教育委員会, 2014年
  • 『小菅修験遺跡2002』, 長野県飯山市教育委員会・長野県飯山建設事務所, 2003年

上記4点の資料は、全国遺跡報告総覧のサイトからダウンロード可能

長野県内の天然記念物一覧(植生)(PDF)

神戸のイチョウ保存会

小菅神社

日本植物生理

法華宗(陣門流)「仏教質問箱」

学会「みんなのひろば植物Q&A」

森と水の郷あきた「樹木シリーズ54イチョウ」

飛不動 龍光山正寶院「やさしい仏教入門」

臼杵市「荒神様」

新熊野神社「熊野信仰」

消防防災博物館「本能寺の火伏せのイチョウ」

仙台市「三宝大荒神のイチョウ」

飯山市「小菅の里及び小菅山の文化的景観が国の重要文化的景観に選定!!」

巨木学

信州遠山郷秘境の旅「秋葉信仰とは」

北信州木島平村「大イチョウ」

栃尾観光協会「秋葉神社と秋葉三尺坊」

秋葉総本殿 可睡齋「由来」

佛心宗 福厳寺「秋葉三尺坊大権現とは?」

秋葉山秋葉寺

福岡市の文化財「櫛田の銀杏」

赤倉温泉観光協会「赤倉温泉の魅力」

新井市・妙高高原町・妙高村 合併協議会だより第16号

飯縄神社

長野市「信州・風林火山」特設サイト川中島の戦い「飯縄大明神(飯縄権現、飯縄山、飯綱山)」

レストラン・バーJAZZY「斑尾山の山名起源と薬師伝説・・・あるじのガイド」

長岡市「謙信公兜の前立」

戦国時代の謎が解明!歴史に隠された黒い噂と黒歴史まとめ「圧巻!!戦国最強の武将、上杉謙信の兜と刀コレクションとは?!」

堀輝三『イチョウの伝来は何時か・・・古典資料からの考察・・・』, Plant Morphology, 13(1)/31-40.2001.ミニレビュー

「行事紹介 秋葉神社祭」,『はつかさん第8号』 , 天津地域振興協議会・総務企画部編集委員会,平成22年6月発行、p.1

『大日本老樹名木誌』 , 本多静六 編,大日本山林会,大正2年、p.110(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)

児島恭子『イチョウ巨樹の乳信仰-歴史研究の資料に関する課題』,札幌学院大学人文学会紀要(2018)第103号73-85

 

参考にさせていただいたサイトや資料の著作権を尊重し、違反しないよう十分注意して書いたつもりですが、もし問題だと思われる部分があればお知らせくださいますよう、お願いいたします。

珠洲市の倒さスギと八百比丘尼

石川県珠洲市(いしかわけんすずし)

「倒さスギ(さかさすぎ)」

県指定天然記念物
樹齢:700年~900年
樹高約12m。幹周約6.74m。
枝の広がり30m。

珠洲市の倒さスギ
珠洲市の倒さスギ(2017年8月撮影©MY)

出発

皆様こんにちは。

今回は能登半島珠洲(すず)市の倒さスギ(さかさすぎ)に注目したいと思います。杉というと、なんとなく林のようにまとまって生えている杉林をイメージしてしまうのですが、石川県珠洲市の倒さスギは、そんなイメージを覆してくれる独特の風景の中に私たちを連れて行ってくれます。
では出発!

独特の風景と形

倒さ杉遠景
倒さスギ遠景(2017年8月撮影©KY)

この倒さスギ、田んぼの真ん中にあるんですよ。目立ちますよね!

説明版によると樹齢は約850年だそうで、ネットで見つかる情報では700年~900年とばらつきがありますが、鎌倉時代から存在していたと考えるだけで、その歴史の長さに圧倒されます。

幹回り約6.74メートル、高さ12メートル、そしてなんと枝の広がりが30メートルにもなるそうです。もしかすると上に伸びずに下の方に広がっていったからこそ、この枝ぶりになったのかもしれないですね。

なぜ「倒さスギ」?

「さかさ」の漢字が「逆さ」でなく、「倒さ」になっているので、最初は読み方がわかりませんでした。それと、この木を実際に見ても、なぜ「さかさ」なのか全くわからない私。

説明版によると「すべての枝が下方に垂れ、地面につくものものある。こうした樹形はまことに珍しくみごとであり、この名の由来があると思われる」。

実際は、上の方の枝は普通に伸びているように見えますが、地面を這うように伸びている枝から力強さや雄大さを感じます。自然が作り上げたひとつの芸術作品。

周辺の広々とした田園風景と枝の広がりが非常にバランスよくマッチしていて、清々しい気持ちになります。

実は他にもある逆さ杉

倒さ杉といった名がついている木は他にもあるのかと思って調べてみたところ、逆さ杉と呼ばれるスギは全国に何本もあることがわかりました。例えば栃木県の塩原八幡宮境内にある逆さ杉。これは樹齢が1500年と更に古い木ですが、ネットで公開されている写真では地面に這うような枝はないようですが、2本並んで根元がひとつになっていて「夫婦杉」とも呼ばれています。

福島県玉川村にある川辺八幡神社の逆さ杉も樹齢1000年という古木。栃木県の塩原八幡宮の逆さ杉と同様、高く伸びているので、一口に「逆さ杉」と言ってもいろいろな形があり、それぞれに個性があります。

珠洲市の倒さスギにまつわる伝説

珠洲市の倒さスギには、八百比丘尼が昼食に使った杉箸を地面に刺したものが大きくなったという言い伝えがあります。

八百比丘尼ですが、読み方は「やおびくに」と「はっぴゃくびくに」の2通りあるようですね。

珠洲市役所のサイトからの引用です:

「この杉の周辺は、かつて高照寺の境内で、中世の頃は、七堂伽藍を擁した霊場であったという。それにまつわる伝説がある。若狭の八百比丘尼(はっぴゃくびくに)が能登行脚の途中、眼病を患ったので、高照寺の薬師如来に祈願をし、千万遍の念仏を唱えることで、病は快癒した。境内でお昼を食べ、杉の箸を地面に刺したところ、枝葉が伸びだしたが、刺した方向が逆さまだったので、逆さに生えてしまったのだという。」(CC BY珠洲市役所)

八百比丘尼についての伝説は土地によって違いはあるものの、人魚の肉だと知らずに食べてしまった娘(または妻)が、ずっと若い姿のまま(不老不死)になってしまったことに苦しみ、諸国行脚の旅に出て人々を助けた、という話は多くの伝承で共通しているようです。故郷の若狭(福井県)に戻り洞穴に入って亡くなったとのことで、福井県小浜市には八百比丘尼の入定洞(にゅうじょうどう)があることがわかりました。

長野県戸隠神社の三本杉にまつわる言い伝えは、人魚の肉を食べたことと八百比丘という名前は共通していますが、登場人物や木の発生の仕方が異なります。この伝説での八百比丘は、主人公の漁師が出家してからの名前で、八百比丘尼という女性は登場しません。

いろいろ調べているうちに、比丘(びく)と比丘尼(びくに)というのは、戒名や法名と呼ばれる出家後の個人名ではなく(例えば僧なら空海、尼僧なら天璋院)、比丘は僧、比丘尼は尼僧のことだとわかりました。八百比丘尼の場合だと、八百が個人名ということでしょうか?白比丘尼という名前で紹介されている場合もありますが、それならなぜ八百と白になってしまったのか謎が残ります。

それにしてもなぜ伝説で人魚の肉なのか・・・人魚と言えば、私は小川未明の童話『赤い蝋燭と人魚』に親しんでいたので、八百比丘尼の伝説で人魚が肉として食されてしまう存在としてのみ登場させられてしまっているところに驚愕しました。。。

さて、この伝説にもある高照寺(高勝寺という表記もある)に関しては、高野山真言宗であること以外の情報はほとんど見つからず、八百比丘尼が祈願したとされる薬師如来のことなどはわかりませんでした。

倒さスギは境内の外にあり、地面に伸びた杉の枝の近くに小さな祠はありますが、私などは近くにお寺があることさえ気がつかなったぐらいです。ただ、杉の近くにあった石碑から少しだけ情報を得ることができました。

倒さ杉の石碑
倒さ杉の石碑(2017年8月撮影©KY)

江戸時代の記録

この石碑は、文章全部は読みとれないのですので、倒さスギの近くの石碑ということで検索してみたところ、珠洲市の市議会だより(平成29年11月1日発行No.6)に写真とともに説明がありました。

それによると、この石碑は太田道兼の歌碑で、歌は「三輪ならで ここにもありや一本の 杉のみどりの志るしさかえて」だそうです。

三輪というのは、神の山として信仰されている奈良県の三輪山のことで、杉や松などの大木があり、特に杉は神聖なものとして考えられているそうです。

太田道兼は江戸中期・田沼意次時代の官吏で、諱(いみな)を頼資といい、『能登名跡誌』の著者(著者名は太田頼資の方で記録されている)だそうで、その抜粋から、高照寺は七堂伽藍の大きなお寺であったこと、その当時から倒さスギは一本杉であったこと、そして八百比丘尼(原文では八百比丘尼ではなく百比丘尼)の箸の伝説が伝わっていたこともわかりました。『能登名跡誌』は、1931年と1970年にも出版されたようで、専門家の間ではよく知られた本なのかもしれません。

ちなみに歌碑の設置は1988年(昭和63年)とのことです。

杉について

さて、杉と言うと、とても身近にあって、どこでも見かけるような気がしますが、杉を見ないで思い出してみようとすると、私の場合は、漠然としか頭に浮かびません。比較的イメージしやすいのが、スギ花粉が飛んでいる様子とか・・・

スギは日本固有の樹木で、地域によって様々な品種(地域品種)に分類されているようです。例えば屋久島の屋久杉は、本やテレビなどで写真や画像を見たことがありますよね。驚いたことに、杉は日本で一番高く成長する木で、大きいものは50メートル以上になるそうです。そして樹齢2000年から3000年までとされる杉が全国各地にあるそうなんです。

加工しやすく成長も早いことから、木材としての杉の利用が始まったのは縄文時代にまで遡るそうで、建築材から船や酒樽まで幅広く日本の生活に使われてきたんですね。

この加工のしやすさですが、のこぎりも無かったような時代でも、木目に沿って割ることができたからなんだそうです。なるほど!

ところで杉はまっすぐだというイメージがありますよね。まっすぐな「直(す)ぐ木」ということから「スギ」と呼ばれるようになったという説明をいろいろなサイトで見かけました。

こうした杉の一般的な特徴からすると、「倒さスギ」は意表を突く場所に1本だけで、しかも独特の形で、本当に特異な存在です。

箸の材料

八百比丘尼は杉で作られた箸を地面に刺したのですが、箸の材料になる木の種類は杉が多いのでしょうか?

八百比丘尼の言い伝えは鎌倉時代から室町時代にかけて広がったと考えられているようです。

一方、箸が7世紀に遣隋使によって中国から日本に伝えられ、一般に普及していったのは、平安後期から鎌倉時代にかけてとされているので、八百比丘尼の時代には箸が日本人の生活に浸透していたと言えます。特に、鎌倉時代には、箸と併用されていた匙が使われなくなり、箸だけを用いるようになったという点も興味深いですね。

素材に関しては、箸が伝えられた当初は竹が主流であり、木製の場合は、竹以外では、ひのき、柳、松、萩などが使われ、杉は吉野の後醍醐天皇(14世紀)が献上された杉箸を喜んだという言い伝えがあり、ちょうど八百比丘尼の伝説が広まった頃にあたります。

調べていくと、八百比丘尼だけでなく、高僧や歴史上の人物が使った箸を地面に立てたところ大木になったという言い伝えはいくつもあり、それは「箸立て伝説」と呼ばれていることがわかりました。

箸立て伝説とは?

なぜ箸を地面に立てるのでしょうか?箸に使った人の魂が乗りうつると考えられ、使用した後で折って捨てている習慣があったことや、もともと箸は祭礼に使われ、神とつながりをもつものであったことなど、地面に立てることで神の依り代としたのではないかと考えられるようです。

八百比丘尼の場合は、眼病が治るように高勝寺の薬師如来への祈願したいうことになっています。柳田国男の『日本の伝説』の中に「御箸成長」という見出しがあり、全国で知られている「箸立て伝説」を伝えているほか、お祭りの祈りに木の串または枝を土にさす習慣があったことや、新しい箸をけずって祭りの食事を神と共にする習慣があったという説明もあります。つまり、お弁当の箸とは言っても、神仏と食事した時に使った箸に祈りを込めて地面に箸を立てたとも考えられます。

『日本の伝説』の中では、八百比丘尼は白比丘尼という名前で紹介されていますが、それによると、珠洲の逆さ杉だけでなく、白比丘尼は諸国巡りで杖や椿の小枝をさしてそれが大木になったものがいくつもあるとのことで、その他の情報からも、八百比丘尼の伝説は非常に多くのパターンがあり、植樹によるものもたくさんあることがわかりました。八百比丘尼は特に白椿を好んだとされています。

地面に這うような形

日本海側に分布する杉はウラスギ、太平洋側に分布する杉はオモテスギとして区分され、遺伝的にも異なるものだそうです。また、ウラスギは雪の重みによって枝がたわみ、地面に付いた部分から根が出て株になる(伏条更新)ことがあるとのことで、この特徴を持つものとして、富山県入善市の杉沢の沢スギが知られています。珠洲市の倒さスギの枝の中には、完全に地面に接している部分もありますが、そこから根が出ているようには見えませんでしたし、新しい株ではなく、あくまでも枝のまま地面に近いところでくねくね曲がっているとしか言いようがありません。枝が下に向かって曲がった理由は何でしょうか?枝の太さからすると、雪の重みによるものとは思えないのですが・・・不思議な現象、水田が描く海原のような広々とした場所にポツンと見える船か島のような姿、八百比丘尼の伝説と言い、そこだけ非日常の時間が流れているかのようです。

旅のアイデア

珠洲に行くなら「見附島(別名:軍艦島)」もおすすめスポットです。倒さスギも独特の景観を作り出していますが、この見附島も一度見たら忘れられない風景のひとつになること間違いなしです。

見附島
見附島(軍艦島)(2017年8月撮影©KY)

今回の旅を振り返って

倒さスギにまつわる伝説から、木にまつわる伝説は非常に多種多様で、それは世界中に見られる人間と木との関係であることがわかりました。人間の木に対する想像力とはなんと豊かなことでしょうか。木は、草花のように四季の移り変わりによって咲いたり枯れたりせず、たとえ落葉樹であっても一年を通じて、そして長い年月を経ても風景の中にいつも存在しているもので、人間にとって一番身近に感じられる植物なのかもしれませんね。

木を見るということは、その木を見た昔の人々も、その木を見るであろう未来の人々とも何かつながっているような気がしてきます。

この記事を読んでいただいてどうもありがとうございました。

主な出典(順不同)(本文内に入れたものは省略してあります):

ええやん!若狭の國・若狭おばま観光協会
戸隠神社
日本植物生理学会-みんなのひろば-植物Q&A
にゅうぜんマニア・入善町観光物産協会
農林水産省-特集2お箸のはなし(1)
すず観光ナビネット
とちぎ旅ネット-逆杉
福島民報~年輪刻んで~ふくしまの名木
石川県-倒スギ
ふくいドットコム-八百比丘尼入定洞
三輪明神大神(おおみわ)神社-三輪山
みんなの趣味の園芸NHK出版-スギ
森林・林業学習館
樹木図鑑
材木育種センター『材木遺伝資源情報第10号-5(2006.9)』(PDF)
木材博物館
柳田国男『日本の伝説』(青空文庫)
藤原繁『箸の文化と割箸の歴史地理:奈良吉野下市の割箸を主として』(PDF)
九頭見和夫『日本の「人魚」伝説-「八百比丘尼伝説」を中心として-』(PDF)
向井由紀子、橋本慶子、長谷川千鶴『わが国における食事用の二本箸の起源と割箸について』(国立国会図書館デジタルコレクション、ファイル名:ART0001973969.pdf)

「お宮の松」に見る熱海の今昔と将来

静岡県熱海市(しずおかけんあたみし)

「お宮の松」

お宮の松
熱海のお宮の松(2016年2月撮影©MY)

出発

皆様こんにちは。

だんだん木々の芽が膨らんできたように見えるこの頃です。

父から送ってもらった写真の中には、弥彦の蛸ケヤキを超えられる落葉樹のものがなかったので、撮影時期が1月から3月までという基準にして選んだのが「熱海のお宮の松」の写真です。

『お正月の門松』でも書いたように松は常緑樹なので落葉しないですが、枝の形を鑑賞できる木ですよね。

さて、今回はどんな旅になることでしょうか。出発!

どうして「お宮の松」という名前が?

ネットで調べれば理由はすぐにわかりますが、まず、お宮というのは明治時代の尾崎紅葉(おざきこうよう)の小説『金色夜叉(こんじきやしゃ)』のヒロインの名前です。物語の中で、主人公である寛一(かんいち)との別れのシーンの舞台が熱海海岸なのだそうです。

この小説のために松を植えたわけではなく、小説ができる以前に松があり、美しいことから「羽衣の松」と呼ばれていたのだそうです。

金色夜叉の人気とともに舞台となった熱海が有名になり、「金色夜叉の碑」が「羽衣の松」の近くに作られたりして、次第に「お宮の松」と呼ばれるようになったとのことです。

美しいことから「羽衣の松」と呼ばれると言われても、羽衣というものが何であるかよくわかりません。「羽衣の松」という名で有名なのは、同じ静岡県内の「三保(みほ)の松原」ですが、これについてはまた別の機会に調べてみようと思います。

現在の松は2代目で、初代の松は、江戸時代に老中の松平信綱(まつだいらのぶつな)が植えさせた松の1本と言われているそうです。松平信綱は伊豆守(いずのかみ)という官位を与えられていて、「知恵伊豆」とも呼ばれ、伊豆巡視の際にこの地に松を植えさせたとのことです。

「金色夜叉の碑」は、尾崎紅葉を師とする小栗風葉(おぐりふうよう)の金色夜叉の句が書かれたもので、お宮の松の近くには、初代お宮の松の切り株、館野弘青(たてのこうせい)作「貫一お宮の像」もあります。この像は、熱海海岸で貫一がお宮を足蹴にする有名なシーンが再現されたものです。

貫一お宮の像
熱海市フォトライブラリーより-貫一お宮の像

金色夜叉の碑
紅葉山人記念・金色夜叉の碑
(2016年2月撮影©MY)

と言っても、私は『金色夜叉』という題名とこの名場面ぐらいしか知らなかったので、近年この足蹴シーンの像に対して様々な意見が出されて、説明版が加えられたりすることによって、小説を知るきっかけになっていいのではないでしょうか。

先日古い外国映画を観ていたら、エレベーターの中でタバコを吸っているシーンがあって驚きましたが、生活スタイルや社会の価値観の移り変わりってこんなものですよね。

尾崎紅葉の金色夜叉は未完だったので、小栗風葉が続編として「後の金色夜叉」という小説を書いたそうですし、金色夜叉は歌も作られ、何度も舞台化や映画化されて、長く人々に親しまれてきたということがわかりました。

ところで夜叉ってなんでしょうか?

もともとはインドの半神半鬼で、仏教では仏法を守る八部衆(8対1組の神)の1柱だそうですが、金色夜叉ではそうした仏法を守る神という意味では使われていないようです。これ以上の情報は簡単には見つかりそうもなかったので、夜叉についてはこのくらいにして、他に気になる点から「お宮の松」の旅を続けることにします。

初代のお宮の松について

松が2代目になったのは、初代の松が、キティ台風によるダメージや、車の衝突、排気ガスなどによって枯れてきたからだそうです。

キティ台風:1949年に関東地方に上陸し大災害を引き起こした。

1958年(昭和33年)に撮影された写真を見ると、初代は道路の真ん中にあり、両側にバスや車が走っているという、まさに交通事故の危険と排気ガスに常にさらされている状態です。

初代のお宮の松があった場所に記念プレートが埋められていますが、道路の真ん中ですから写真を撮るのも大変ではないでしょうか?

初代お宮の松は、展示されている切り株のほかに、1968年に貫一とお宮を模したこけしが作られました。現存するのは13対で(全部で何対作られたかは情報なし)、2014年に、1対がそれまで所有していた小学校から熱海の起雲閣(きうんかく)に寄贈されたそうです。

2代目登場の話は、熱海市のホームページに詳しく書かれています。

2代目お宮の松にまつわる話が面白い

熱海市のホームページで閲覧できるのは、2代目が植えられて2年目の1968年に「東海民報」に10回連載された記事です。

熱海市ホームページ『新 お宮の松誕生記』

2代目の松を見つけるまでの苦労や、盛大に行われた植樹祭(誕生祭)の記念行事の様子など、いろいろなエピソードが、筆者のユーモアあふれる文体で生き生きと伝えられていますので、是非読んでみてくださいね。

私が特に注目した点のひとつは、2代目が計画されたときに、初代お宮の松を擬人化して、2代目の登場を人々に知らせるという演出方法です。筆者はこれを「松に独白させた」と呼んでいますが、こういった方法だと、より一層お宮の松に親しみを覚えますよね。

もうひとつは、お宮の松の両脇に植えられたという木の話です。最初に2代目お宮の松の候補になった松は輸送の難しさから断念されたのですが、同じ敷地にあった桜を筆者がとても気に入ったことから、その桜だけでなく梅まで一緒に寄付してもらえて、2代目お宮の松の両脇に植えたのだそうです。しかもそれだけではありません。お宮の松には「添え松」も欲しいとのことで、「添え松」1本も植えられたのです。このエピソードも面白いですよ。

ただ、この桜(寒緋桜のようです)、梅、添え松は今はお宮の松の近くにないようですが、どうなのでしょうか?「お宮の松」がある場所は、平成13年(2001年)3月に土壌改良と排水工事等が完了して現在のようになったそうで、これ以前に撮影されたと思われる写真では、貫一・お宮の像が松の向かって左側にある(現在は向かって右側)ので、この工事の時に移転されたのかもしれないですね。

また、初代お宮の松には「のこ入れ式」が執り行われて、お経があげられ、2代目の根の下に、初代の枝と『金色夜叉』の初版が埋められたそうです。植樹祭がお披露目式というだけでなく、初代と2代目の2本の松に対する人々の敬意が込められた式典だったんですね。

あれこれネットで調べているうちに見つかった情報と写真によると、2代目お宮の松も20年ほど前に衰弱が目立つようになったらしく、世代交代の時と同様の「独白」形式で、その状況を人々に知らせる看板が立ったようです。

「お宮の松」はクロマツ

「お宮の松」の名前の由来や、木の歴史については、今まで書いたように情報が入手しやすいのですが、樹木としての情報が見つからず困っていたところ、説明版の画像を見つけました。この説明版によると種類はクロマツです。

初代のお宮の松の樹齢が300年以上、2代目の最初の候補となった松の樹齢も300年ぐらいとのことですが、2代目は2001年に約95年となっていますから、2018年で約112年ですね。ちなみに、2代目は、当時の熱海ホテル庭園内にあったものだそうです。

クロマツと海岸の松林

『お正月の門松』でアカマツは山林に、クロマツは海岸沿いに多いということを知ったのですが、では、なぜクロマツは海辺でよく生育するのでしょうか?

調べていくうちに、クロマツは海岸でよく生育するという考え方よりも、クロマツは海岸の条件に適した木であることから、日本ではクロマツが海岸に植えられてきたという歴史に注目すべきだということがわかりました。

防風林や砂防林として、防災の機能が果たせる木として、日本の海岸に植えられてきたのです。

でも、クロマツの自生林がなかったわけではありません。クロマツはもともと海岸部に自生していたと考えられており、皇居前に約2000本あるクロマツは、植栽によって今のような風景になっていますが、江戸城ができる前は一帯が入り江になっていて、そこにクロマツが自生していたのだそうです。

海岸部に自生している木ということでクロマツが植栽のために選ばれたのかというと、そうでもないようです。

財団法人日本緑化センターの『日本の松原物語-海岸林の過去・現在・未来を考える』(平成21年8月)には、江戸時代の海岸砂防植栽の全国的な実施状況が一覧表で紹介されていますが、それを見ると、松以外にも、杉、雑木、柳、ネムノキ、グミなども植栽されたことがわかります。

この一覧表には、植栽を企画・実施した人の名前と職業も記載されています。藩の命令によるものだけでなく、個人で実現したものも数多く、自費を投じて実施したケースや、植栽の方法を工夫して松林造成の成功に至った経緯など、貴重な記録もあります。

クロマツ以外では、ネムノキとアキグミを除いては成功例がほとんどないため、最終的にクロマツが植栽する木として一般化していったことが明らかにされています。

松原の植栽の歴史からすると、日本書紀にも植栽や飛砂防備林に関する記述があるようですが、特に江戸時代になってから海岸砂丘地に砂防林として松原の造成が行われました。それには当時、飛砂害(ひさがい)が深刻になっていたという背景があります。

クロマツが海岸に適している理由をまとめてみました:

  • 常緑針葉樹は、落葉広葉樹より乾燥に耐える性質が強い。
  • 成長が早い。主軸は1年に70センチ伸びる。
  • 塩の害に強い。葉の内部構造が水溶性物質の流動を抑え、海水の塩分が入らないようにする。葉が細いので、風に運ばれてくる砂が地面に落ちやすい。
  • 地中深くまで根が伸び、大きく広がる。
  • 全体が傘を広げたような形になり、日光を受けやすい。
  • 葉は2枚または1枚(クロマツという分類が更に下位に分類できるようです)。

海岸の松林は第二次世界大戦中に荒廃し、飛砂害が深刻化したため、戦後になって砂防植林が全国的な事業としてすすめられたおかげで、1960年代末頃に現在の海岸林の状態ができあがったそうですが、問題はその後も続いています。

クロマツ海岸林も植林しただけでは十分に維持できず、過剰な密集、病虫害、広葉樹林の侵入など様々な問題への対策が必要であることがわかりました。

広葉樹は海岸には適さないはずなのに、なぜ侵入できるのでしょうか?それは、クロマツが増えることによって松林の内陸側が肥沃になるからだそうです。

松林が衰退する原因や状況に合わせ、各地で海岸防災林再生の活動が行われています。

ところで「お宮の松」は松林の中にありませんよね。周辺はどうなっているのでしょうか?

お宮の松のある場所「お宮緑地」

お宮の松があるのは、熱海海岸の中でも、国道とサンビーチに挟まれた「お宮緑地」と呼ばれる緑地ゾーンで、松林ではありません。

この「お宮緑地」が完成するまではどうだったのでしょうか?

「お宮の松」は初代の頃から1本だけで、周りに松林はなかったようです。

江戸時代に盛んだった松林造成は、熱海でも行われたのでしょうか?

はっきりした答えが見つからないので、当時の風景画を調べてみました。

1681年(天和元)年に描かれた『豆州熱海絵図』は、熱海を詳細に描いていますが、残念ながら海岸の様子がよくわかりません。ただ、岩が突き出した部分はリアルに描かれているので、あいまいな部分は砂浜ということだと思います。そこに木はありません。

また、他の絵や写真を見ても、松林は見つかりませんでした。

名勝八景 熱海夕照
国立国会図書館デジタルコレクションより-
豊国作
『名勝八景 熱海夕照』
制作年不詳

日本名勝旧蹟産業写真集
国立国会図書館デジタルコレクションより-
西田繁造編
『日本名勝旧蹟産業写真集-奥羽・中部地方之部』
大正7年出版

ところが、『金色夜叉』の挿絵のひとつに松林が描かれているものがありました。(著作権フリーの画像がなかったので『港区ゆかりの人物データベース』というサイトからご覧ください)

尾崎紅葉と交流の深かった武内桂舟(たけうちけいしゅう)の作品ですが、貫一の後ろに松林が描かれています。でも・・・

松林の根が波をかぶりそうなぐらい、海と松林が近すぎて、なんとなく現実味に欠けるような。。。まあ、挿絵なので物語の中での熱海海岸なのかもしれません。

明治時代の絵師・山本光一の作品に熱海海岸部が描かれているものがいくつかありますが、松は点在するような感じで、初代お宮の松が1本だけそこにあったとしても不思議ではない風景です。

熱海市ホームページ(山本光一『熱海八景』の掲載ページ)

個人的な推測ですが、熱海では松林を造成する必要がなかったのではないでしょうか。江戸時代の松の植栽の目的が防砂林としての利用であれば、飛砂の害がない場所では、多くのお金や労力をかけて松林を作らなくていいわけです。

熱海は小さな湾のような形で山に囲まれているという地形的条件によって、強風から守られて飛砂の害がなかったのかもしれません。

熱海には砂浜がなく、岩場だけだったからというのも考えられますが、明治時代には砂浜が広がっていたと書いている資料もあるので、砂浜はあったけれども、松林なしで大丈夫だったので作らなかったのではないかと勝手に想像します。

また、昭和に入って海岸線の埋め立てが進められて、現在は全て人工砂浜だそうです。

お宮緑地には、2014年(平成26年)に「ジャカランダ遊歩道」が完成して、お宮の松とジャカランダ並木のコラボにヤシの木もミックスされた、オリジナリティ溢れるエリアになっています。

お宮の松の独白という手法といい、熱海市は町の雰囲気を盛り上げる演出が上手ですねえ。

ジャカランダの紫色の花が咲く6月にフェスティバルも開催されます。

ジャカランダ:南米産のノウゼンカズラ科の木で、紫色の花をつける。

ジャカランダ遊歩道
熱海市フォトライブラリーより-
ジャカランダ遊歩道

『金色夜叉』の方は、貫一・お宮の別れのシーンが1月17日の月の夜だったことから、1月17日に「尾崎紅葉筆塚祭」と「尾崎紅葉祭」が開催されます。

「湯宿一番地」敷地内にある筆塚には、尾崎紅葉が生前使用していた筆が祀られているそうです。

ちょっと寄り道

熱海では、お宮の松のように日本の伝統的な木の姿を描いているものもあれば、異国情緒の溢れるヤシの木も並んでいます。

熱海のヤシの木
熱海のヤシの木
(2016年2月撮影©MY)

父が送ってくれたヤシ並木の写真です。これだけ見ると、ハワイ?

ヤシにもいろいろな種類があるはずなので、これはどの種類なのか・・・「背の高いヤシの木」で検索していったところ、「ワシントンヤシモドキ」という種類のようです。

それにしても背が高い!

熱海市の木は熱海桜(アタミザクラ)、熱海市の花は梅ですが、熱海桜は寒緋桜(カンヒザクラ)と山桜(ヤマザクラ)の交配種だそうです。1871年(明治4年)頃イタリア人によって、レモン・ナツメヤシとともに熱海にもたらされた品種ということですが、開花時期が1月、開花期間が1か月と、驚かされることばかりです。

梅の方はどうかと言えば、人気スポットである熱海梅園が1886年(明治19年)に開園しているので、市の木と花に選ばれているのも納得できます。

ちなみに熱海の梅も日本一早咲きらしいですよ。もしかして今が見ごろでしょうか?

多種多様な木と花が溢れる熱海で、松は少数派のようです。貴重な「お宮の松」はエキゾチックな木や草花に囲まれて、熱海の有名な景観を作り出しているんですね。

お宮の松と熱海の移り変わり

お正月の門松』で、門松では松は歳神様の依代、『まさに「けやけき木」、弥彦の「蛸ケヤキ」』で、高砂神社の相生の霊松(あいおいのれいまつ)は尉(じょう)と姥(うば)の2神(イザナギとイザナミと考えられている)、というように、松と神様の結びつきを知ったのですが、「お宮の松」は松との接し方が全く異なります。

「お宮の松」は、『金色夜叉』という小説の人気と熱海の大衆観光化の中でこの名前が付いたのですから、もし海岸にあった木が松でなかったとしても「お宮の・・・」と名前が付いていたのかもしれません。

また、2代目を見つけるという過程においては、神秘性は必要なく、見た目の素晴らしさが一番重要であると同時に、輸送で困らない場所にあるというのも選択基準となっていました。

さて、熱海は『金色夜叉』によって一般大衆の人気観光地となりましたが、ここで忘れてはいけない熱海の特徴と言えば温泉ですよね!

熱海の温泉としての最古の記録は鎌倉時代に遡るそうですが、大きな発展は、徳川家康が熱海の温泉を気に入ったことに始まるそうです。その後、温泉の名所として知られていきますが、交通が不便だったこともあり、『金色夜叉』の書かれた時代には、皇族、政治家や文化人といった一部の人々の保養地だったのです。一般大衆の温泉観光地となったのは、丹那(たんな)トンネルの開通(1934年)によってアクセスが良くなってからだそうです。

その後の熱海は、バブル崩壊後(1990年代)から衰退し続けた後、最近ではその危機を乗り越えてV字回復していると言われています。実際はどうなのかまだわからないと思いますが、2010年頃から町の現状チェックに基づく活性化計画・都市計画を作って、それを推進している点では、かつての受動的な変貌から脱け出して、主体的な展開に変わったようです。それには温泉の町という熱海の原点がベースになっています。

『金色夜叉』も、主人公の生きた時代は今では遠い昔のことですが、お金と恋愛というテーマによって時代を超えて親しまれる(小説を読まなくても・・・!)物語です。つまりその部分は変わらないので、登場人物の服装や持ち物を変えるだけで現代版が作れるという普遍性がありますよね。

こうして貫一とお宮の世界は、温泉街の発展と衰退、そして再興という流れと一体化して、時間とともに発展しているような感じがしないでしょうか。

松が代替わりしても、周辺の海岸風景や町がどんどん変わっていっても、「お宮の松」は、熱海の温泉地としての歴史や文化を伝えていく、温泉観光地である熱海の地域アイデンティティーの象徴のように見えます。

熱海港
熱海港(2016年2月撮影©MY)

旅のアイデア

熱海温泉や海とは逆方向になりますが、熱海市内に巨樹があることがわかりました。

來宮神社(きのみやじんじゃ)の「大楠」です。
樹齢がなんと2000年以上!太さが全国2位。
しかも2本もあるんですよ。そのうちの1本が御神木になっています。

国の天然記念物に指定されていますが、名称は、「阿豆佐和気神社(あずさわけじんじゃのおおくす)の大クス」となっているので、データベースではこの名称で検索するといいですよ。

熱海の樹木でもう1本気になるのが、伊豆山神社(いずさんじんじゃ)の神木「梛(ナギ)の木」です。
この神社は源頼朝と北条政子の逢瀬の場だったそうで、政子は梛の葉に二人の名前を刻んで手鏡の下に置いて祈っていたと伝えられています。
鎌倉時代幕開けの主人公夫婦にこんなエピソードがあったなんて、微笑ましいですね。

また、アカオハーブ&ローズガーデンには世界最大の盆栽があるそうです。

今回の旅を振り返って

私は2013年に熱海に1泊したことがありますが、熱海城に行った後で雨に降られてしまったので、「お宮の松」は見に行きませんでした。今回この松について調べることになり、そこから早咲きの梅や桜、來宮神社や伊豆山神社のことも知ることができました。

熱海は駅も2016年にリニューアルされて、これからも新しい空間や建物の占める割合が増えていくようですが、そうした変化の中で、歴史のある「お宮の松」の果たす役割は益々大きくなっていくことでしょう。

熱海のことをほとんど知らない人間が、熱海についてあれやこれや書いて申し訳ないですが、益々魅力を増して発展していくことを期待しています!

実際にまた旅をする機会があったら、「お宮の松」も含めて、前回見れなかった場所や新しくできたものを見に行きたいと思います。

熱海城
熱海城(2016年2月撮影©MY)

この記事を読んでいただいてどうもありがとうございました。

主な出典(順不同)(本文内に入れたものは省略してあります):

熱海市ホームページ・あたみニュース
SPinfo
ぶらっと旅へ
あたみのまんなか
木の情報発信基地
みんカラ
森林・林業学習館
マツはなぜ海岸に多いのか
中島勇喜『森林の力が暮らしを守る。海辺の最前線に生きる、海岸林の可能性』
環境省・皇居外苑・クロマツ
多摩森林科学館
熱帯植物館
静岡・浜松・伊豆情報局
文化庁・国指定文化財等データベース
都道府県市町村シンボル
熱海まち歩きガイドの会『あたみ桜と河津桜は、どう違うの?』
熱海ネット新聞2014年4月19日記事
熱海ネット新聞2016年1月17日記事
熱海市建設部まちづくり課都市デザイン室『熱海まちづくりビジョン』
国土技術政策総合研究所『第 1 章 海岸管理の歴史的変遷』
太田猛彦『海岸林形成の歴史』
梅津勘『樹木医学の基礎講座 海岸林講座第1回:日本の海岸林の成り立ちと推移-庄内海岸林を中心に─』
法政大学大学院デザイン工学研究科紀要Vol.3(2014年3月)駒井穂乃美『地形から読み解く熱海温泉の空間構造』

まさに「けやけき木」、弥彦の「蛸ケヤキ」

新潟県 弥彦村 (にいがたけん やひこむら)
弥彦神社の末社 住吉神社(すみよしじんじゃ)
「蛸(たこ)ケヤキ」

県指定天然記念物
樹齢800年以上とされる(資料によっては1000年以上)。
樹高約30m。幹周約8m。

蛸ケヤキ
弥彦神社の末社住吉神社の蛸ケヤキ(2016年11月撮影©MY)

出発

皆様、こんにちは。

2018年が皆様にとって良い1年になりますようお祈りいたします。

さて、父から送ってもらった木の写真の中から、今回は冬の季節に合った写真を選びました。

新潟県西蒲原郡弥彦村(にしかんばらぐんやひこむら)にある
弥彦(彌彦)神社の末社(まっしゃ)のひとつ住吉神社の蛸ケヤキです。

11月の撮影で葉が落ちているので、ケヤキが落葉樹だということがわかりやすくていいかもしれません。

鳥居が前にあるので、ケヤキ自体が神社なのかな?と思わせる、不思議な構図だと思いませんか?

では、1本の木から始まる発見の旅へ、出発!

 

ケヤキってよく聞くけど、どんな木なのか知らない

落葉樹だということは写真でわかりましたが、幹や葉を見てケヤキだとわかる特徴はあるのでしょうか?

小豆島・宝生院のシンパク(イブキ)のように針葉樹だと葉の識別さえ難しいですが、広葉樹なら葉は観察しやすいはず。ただし形が似ている葉を持っている木は多いんじゃないかな?なとど思っていると、素晴らしい検索サイトを発見!「樹木検索図鑑」(企画:千葉県立中央博物館、製作:斎木健一氏、天野誠氏、ビジオ氏)。名前が既にわかっているので、ケヤキの特徴を調べるのに使わせていただきました。

分布情報、材木としての利用、名前の由来など、他のサイトも参照してまとめてみました。

名前:ケヤキ(欅)Zelkova serrata
別名:ツキ(槻)
分類:ニレ科ケヤキ属
平均的な高さ:20メートル~30メートル。
分布分布範囲が狭い。東アジアの一部、日本の本州、四国、九州の丘陵地帯や山地に自生。

:長細い楕円形で先がとがっていて、葉の周りがギザギザしている。
長さが3~14センチと、葉によってかなり違うらしい。色は明る目の緑(写真で見た感じ)。
真ん中に太い葉脈1本あり、そこから外側に向かって太めの葉脈がいくつも均一に並んでいる。
また、葉はざらざらしているので、乾燥させて紙ヤスリの代わりに使えるそうです。

樹皮:これにはビックリ!若い木と樹齢の進んだ木では、全然違う木のように見える。若い木の樹皮はグレーのような色合いで、でこぼこした黒っぽい横線のようなものがたくさんある(皮目というそうです)。
樹齢が進んだ木は、樹皮がボロボロと剥がれている。剥がれていって、最後はどうなるのでしょうか?

:雌雄同株(しゆうどうしゅ)と言って、雌花と雄花が同じ株につくもの。「株」は、ケヤキの場合は木なので、1本の木に雌花と雄花がつくということだと思う。開花時期は4月~5月。

:そう果(薄くて皮に種が包まれている)。5mm位の偏球形で枝ともに落ちる。
果期:10月頃。

木材として
重硬で、強い。建築、家具、太鼓の胴、臼・杵、彫刻など、用途が広い。
色は、オレンジ系または黄色系で明るく薄い色、磨くと光沢が出る。
木によって木目模様に大きな個性が出る。

「ケヤキ」の名前の由来
「けやけき木」、「目立つ、ひときわ優れている、顕著な木」という意味とのこと。
「ツキ(槻)」の方は、別名というより、万葉集では「ツキ」が使われていて、「ケヤキ」の方がその後に発生したようです。「ツキ」は木が強靭なことから「強木」が由来になっているそうです。

見られる場所

  • 神社やお寺、都市でも並木として植えられている。
    東京都の明治神宮表参道のケヤキ並木、東京都府中市の馬場大門のケヤキ並木(大國魂神社おおくにたまじんじゃの参道)、埼玉県のさいたま市から所沢市までの国道463号のケヤキ並木、宮城県仙台市定禅寺通り(じょうぜんじどおり)のケヤキ並木など。
  • 線路を守るための鉄道林として鉄道沿線に植えられていることがある。
  • 清水寺の舞台の柱に使われている。
  • 耐久力があり、音の反響がよく、また木目が美しいので和太鼓の胴の部分に使われる。
  • 昔は電柱に使われていた。

 

なぜ「蛸ケヤキ」という名前なの?

大枝が伸びて広がり大蛸の八本足のように見えることから、この名がついたそうです。

ただ、老木で枝が弱ってしまったため、何本か切られて、今は大枝は5本ぐらいのようですが、このように大きな枝が何本もある木は、他の角度から見ると、ずいぶん雰囲気が違います。鳥居の斜め後ろの方から見るとこんな感じです。

弥彦の蛸ケヤキB
別の角度から見た蛸ケヤキ(2016年11月撮影©MY)

中太の枝は切られてしまったのでしょうか、太い枝からいきなり細い枝になっているようにも見え、非常に個性的な形です。個人的には、現代アート風に鑑賞したいような気もします・・・鳥居や祠が写っている部分を加工するのは恐れ多いので、木の部分だけモノクロにみました。

弥彦の蛸ケヤキblack1
弥彦の蛸ケヤキblack1

弥彦の蛸ケヤキblack2
弥彦の蛸ケヤキblack2

弥彦の蛸ケヤキblack3
弥彦の蛸ケヤキblack3

他のサイトでは葉が茂っている時期の写真も見られるので、比べると面白いですよ。

 

「蛸ケヤキ」と神社の関係

さて、「蛸ケヤキ」はアーティスティックな形もさることながら、最初に書いたように、鳥居の奥に木があるという不思議な配置で、まるでこのケヤキのために神社が作られたような印象を受けます。

ちなみに、神社の名前は住吉神社で、弥彦神社(彌彦神社)の末社(まっしゃ)ということなのですが、末社とは何でしょうか?

神社本庁のサイトによると、神社の境内にある小さな社で本社の管理下にある神社を摂社(せっしゃ)または末社(まっしゃ)と呼ぶそうで、戦前は御祭神や由緒によって摂社と末社を区別基準があったとのことです。
現在は、祀られている場所が境内地内か境内地内かで摂社と末社を区分することもできるそうです。詳しくは神社本庁の神社のいろはのページ-境内の小さな神社について-でご確認ください。

弥彦神社には境内の中に摂社と末社があり、外にも住吉神社を含めて複数の末社があるので、大きな神社の構成の仕方を学びやすいと言えるかもしれません。

たしかに、神社の中に小さい神社があるのって割とよく見かけますね。そこで思い出したのが京都の清水寺。こちらはお寺なのに本堂のすぐ近くに地主神社がありますよね。

このように複数の神仏を一つの敷地内にお祀りする構成というのは日本独自のものなのでしょうか。

キリスト教のカトリックの教会の中には、主祭壇のほかに複数の祭壇があって、それぞれ異なった聖人に捧げられていることがあります。聖人には守護聖人という概念や信仰があって、健康(治癒)、職業、地域などを守ってくれるということなのですが、日本の神社やお寺にそれぞれのご利益を願ってお参りする感覚に似ているように思います。

さて、「蛸ケヤキ」と住吉神社の関係がまだわかりません。この住吉神社は、突然の水難からの加護を願い住吉三神が祀られているとのことです。

「蛸」、「水」、「神様」・・・なんとなくつながってきたような気もします。住吉三神について調べてみましょう。

 

住吉三神は海の神様

調べた結果をまとめると次のようになります。

・住吉三神(すみよしさんしん)。住吉大神(すみよしおおかみ)とも呼ばれる:底筒男命(ソコツツノオノミコト)、中筒男命(ナカツツノオノミコト)、表筒男命(ウワツツノオノミコト)の総称。

表筒男命は上筒男命の表記もある。

 日本神話では、住吉三神は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が黄泉国から帰って海に入って禊(みそぎ)を行った時に海中で生まれた。

住吉神社は全国に約2300社あり、その総本社は大阪の住吉大社です。地名も大阪市住吉区住吉!

蛸ケヤキのある住吉神社の御祭神(ごさいじん)は住吉三神ですが、大阪の住吉大社では住吉三神のほかに神功皇后(じんぐうこうごう)も御祭神として祀られています。

従って、大阪の住吉大社の神様についての情報を調べるときは、この点に注意する必要があります。

大阪の住吉大社の神様:

禊の神・航海安全の神:住吉大神は禊のときに海中で生まれたことから。

和歌の神:住吉大神が現れて和歌を通じて託宣(たくせん)するという話がいくつもあることから。和歌によく出てくる(歌枕)「すみのえ」というのは住吉の昔の名前で、「住江」や「墨江」などの書き方になっていったようですね。

農耕・産業の神:住吉大神が草を敷かずに苗代を作る方法を教えたことから農耕の神となったそうです。でも「草を敷かずに苗代を作る」という意味がよくわかりません。
他のサイトをいろいろ見てみると、播磨国風土記の記述に由来していることがわかりました。
播磨国風土記の話:現在の兵庫県加西市河内の里に住吉大神が訪れ、神様の食事の時に村人が集めていた草を敷き詰めました。しかしこの草を苗代に使うつもりだった所有者が困ってしまい、それを神様に伝えました。すると神様は、ここでは草を敷かなくても苗が育つと言って、その通りになったそうなのです。それまでは苗代に草を敷いていたんですね。

弓の神:神功皇后の新羅出兵(三韓征伐さんかんせいばつ)の話と、神功皇后が大阪の住吉大社に警護のために土師弓部(はじのゆみべ)16人を置いたことがもとになっているようですが、土師弓部とは何かはわかりませんでした。土師(はじ)氏の弓の担当部署?

相撲の神:かつての住吉大社年中行事に由来しているようです。

最初は海の神・禊の神として信仰の対象となって、その後、和歌の神などとしても祀られるようになったと考えていいようですね。

ちなみに神功皇后は、小豆島・宝生院のシンパクを植えたとされる応神天皇の母で、九州を中心に数多くの伝説が伝わっているそうです。

なお、三神の名前-底筒男命(ソコツツノオノミコト)、中筒男命(ナカツツノオノミコト)、表筒男命(ウワツツノオノミコト)-の最初の漢字「底」、「中」、「表(または上)」は、それぞれの神が生まれた海の深さのことを示しているのだそうです。つまり底筒男命(ソコツツノオノミコト)は海底で生まれたということですね。

名前の2番目の漢字「筒」については、原見敬二著『古事記に見る海事思想』(PDF)では、「ツツ」は「ツチ」のことで、「ツ」は助詞、「チ」は尊称であることの他に、有力な2つの説が挙げられています。1つ目は「筒」は船の中央に立てる柱のこと。2つ目は、「筒」は「星(ツツ)」のことで、底・中・上はオリオン座を代表する3つの星で、それが航海の指標として使われていたそうです。

弥彦の蛸ケヤキのある住吉神社は御祭神は、水難から守ってくれる住吉三神をお祀りしているので、住吉三神の「水」に関する面との関連性をもう少し探究してみようと思います。

『新潟県:歴史・観光・見所』というサイトの「弥彦の蛸ケヤキ」のページで、「欅の幹を取り囲むように玉垣が設けられている事からも欅自身が神格化され信仰の対象になっていたと思われます。」とあります。

水難から守るというのは、航海や漁での安全ということのほかに、海だけでなく川や湖なども含めての水辺でのあらゆる事故から守るということかもしれません。

人々はケヤキの形に大蛸のイメージを重ね、海の主であるかのような蛸の前に祠を建てて海の神様のご加護を願ったのではないかと考えます。

弥彦に蛸にまつわる伝説がないかどうか調べてみましたが、見つかりませんでした。

 

明訓校の校内にあった祠(ほこら)

祠は、明訓校の校内に建立されてから校内神社となっており、明治28年(1895年)に廃校になった際に、住吉神社の氏子有志が譲り受けて今の場所に移したと伝えられています。

校内に祠を建立するというのは、今では考えられないと思うのですが、どういった経緯でそうなったのでしょうか?

新潟県立文書館のサイトに貴重な情報が公開されています。初代校長は国学者の大橋一蔵(おおはしいちぞう)氏で、なんと明訓校は弥彦神社禰宜(ねぎ)鈴木家の土蔵を校舎としてスタートしたそうです。禰宜というのは神職のひとつのようですね。

開校が明治13年(1880年)で、3年後の明治16年に弥彦神社北東に洋風建築の校舎ができ、現在は校舎はなく石碑があるそうです。

つまり明訓校は弥彦神社の一角にあったようなものなのですね。

明訓校は後に県立校となり、財政悪化による廃校と再開を経て、生徒数減少によって最終的に廃校になってしまったわけですが、「明訓」の名は新潟夜間中学校、続いて野球強豪校である新潟明訓高等学校に引き継がれ現在に至っています。

注:出典は、新潟県立文書館のサイトの中の越後佐渡ヒストリア『第29話~来たれ!生徒諸君~弥彦の明訓学校』のページですが、リンクURLが長いので、新潟県立文書館のトップページのURLのリンクを貼っておきます。

更に調べていくと、現在の新潟明訓高等学校も弥彦神社とつながりがあることがわかりました。

昭和27年(1952年)に世界平和を祈って弥彦神社と新潟明訓高等学校とが学校林設定契約を結び、弥彦神社が所有する山林に生徒たちがアカマツ約9000本を植樹したそうです。
このアカマツの育成と保護は神社と学校が協力して行い、2002年に伐採して神社と学校が受け取る内容の契約だったようですが、その後の情報が得られませんでした。

ただ、弥彦の丘美術館の入口すぐ近くに「新潟明訓高等学校学校林」という標柱があるそうなので、伐採はされておらず、保護が続けられているように思われます。

弥彦神社と明訓は学校の組織が変わっても、強いつながりを持ち続け、そこに「蛸ケヤキ」や「学校林」という「木」が存在していることに不思議な縁が感じられます。

 

ちょっと寄り道

前回の記事「お正月の門松」で、兵庫県高砂市(たかさごし)の高砂神社の相生の霊松(あいおいのれいまつ)について調べました。
この松は一つの根から雌松(アカマツ)と雄松(クロマツ)の幹が出て、尉と姥の2神が現れて夫婦の在り方を示すためこの松に宿ると告げたことから、この呼び名がついたそうです。

能の演目『高砂』では、播磨国(兵庫県)高砂にある高砂の松と摂津国(大阪府)の住吉にある住の江の松とが一つの根から成っている相生の松であり、主人公は高砂から住吉へ向かい、そこで住吉明神が現れて平和な世を祝福します。

 

弥彦村は木の好きな人にぴったりの場所

蛸ケヤキは昭和27年(1952年)から県指定天然記念物に指定されていますが、『弥彦村』のサイトによると、弥彦には他にも県指定天然記念物の「弥彦の婆々スギ」や「弥彦参道スギ並木」というのがあるそうです。

「木を見て森を見ず」ではないですが、蛸ケヤキやその他の天然記念物だけでなく、弥彦村全体について見てみましょう。

弥彦村は樹木に覆われた弥彦山(634m)の麓にあり、自然に恵まれた土地なのですね。11月には新潟県森林まつりも開催されます。

弥彦神社も森の中にある感じですし、近くに城山森林公園という樹木の宝庫のような場所もあります。

実は私も弥彦神社に行ったことがあるのですが、雨がかなり降っていたので、ゆっくり散策することができず、蛸ケヤキがあることにも気が付きませんでした。

でも木の存在感がとても感じられる場所でした。たくさんあるからというだけでなく、それぞれの木に個性があって、それが雨という天の恵みを受けて新鮮な緑の呼吸をしているような感じでした。森林浴というのはこういうことなのでしょうか。

弥彦神社で見かけた木の根
弥彦神社で見かけた木の根(2009年8月撮影©KY)

また、この記事では写真を掲載できませんでしたが、境内にある御神木は椎の木で、弥彦村のサイトによると「御祭神が携えられた椎の杖を地中に挿され、この地が自分の住むべき土地ならば繁茂せよ、と仰せられたところ、芽を出し根をはり、たちまち大木になったと伝えられています。」とのことです。

弥彦神社(通称:おやひこさま)の御祭神は天照大御神(アマテラスオオミカミ)の御曾孫にあたる天香山命(アメノカゴヤマノミコト)で、神武天皇から越後国の開拓の命を受けて、海水から塩をつくる技術、漁業、稲作、酒造りなどを住民に教えたとされています。

弥彦神社の玉の橋
弥彦神社:神様が通る橋、玉の橋(2009年8月撮影©KY)

神武天皇は日本の初代天皇とされる人物なので、住吉大神や神功皇后(第14代天皇である仲哀天皇の皇后)の時代より更に古い時代のことですね。
宮内庁の天皇系図によると、神武天皇の在位は紀元前660年から紀元前585年です。
紀元前660というと縄文時代ですよね?

そんな太古の時代にまで遡る歴史のある弥彦。かわいい鹿もいるので、また行きたい場所です。

弥彦神社の鹿
弥彦神社の鹿(2009年8月撮影©KY)

 

今回の旅を振り返って

これまでの記事もそうでしたが、木について調べているのに、どんどんと神話の方に話が進んでいってしまいます。調べるのがかなり大変です。
こんなことになるとは全く思ってもみませんでした。神話や伝説なので、いろいろな説があり、調べた結果をどのようにまとめていったらいいのか悩みます。

でも、今までは神社にお参りに行っても、御祭神について考えたこともほとんどなかったので、また新しい視点から見れるようになりました。

「蛸ケヤキ」は、落葉した時期だと葉の様子がわからなくなってしまいますが、蛸の足のように広がった枝を見るにはいいですね。

全国にある様々な大ケヤキの写真もネットで見ましたが、それぞれ幹や枝ぶりが個性的で、確かに落葉した時にこそ、その持ち味が目立つ、「けやけき木」が名前の由来だというのがよくわかりました。

もしかして父はそれで11月に蛸ケヤキを見に行ったのかも?

それにしても、木に海の動物の姿を見出す人間の想像力ってすごいなと思いました。

夜になって風が吹いたりすると、枝がざわめいたりして、その独特のシルエットが更に大きな存在感と迫力を見せるんでしょうね。

この記事を読んでいただいてどうもありがとうございました。

主な出典(順不同)(本文内に入れたものは省略してあります)

弥彦浪漫パワースポット
植木図鑑ウィキペディア
木材図鑑
森林・林業学習館
清水寺よだん堂
太鼓の里・新・浅野
月刊杉WEB版
全国有名仏壇店ネット
日本木材総合情報センター
新潟県都市緑化センター
人文研究見聞録
住吉大社
住吉大社吉祥殿
銕仙会
文化デジタルライブラリー
the能com
月刊京都史跡散策会第38号
大阪市立図書館
古代の加西と播磨国風土記(PDFのリンクが貼れないようですが、かさい観光の資料のようです)