珠洲市の倒さスギと八百比丘尼

石川県珠洲市(いしかわけんすずし)

「倒さスギ(さかさすぎ)」

県指定天然記念物
樹齢:700年~900年
樹高約12m。幹周約6.74m。
枝の広がり30m。

珠洲市の倒さスギ
珠洲市の倒さスギ(2017年8月撮影©MY)

出発

皆様こんにちは。

今回は能登半島珠洲(すず)市の倒さスギ(さかさすぎ)に注目したいと思います。杉というと、なんとなく林のようにまとまって生えている杉林をイメージしてしまうのですが、石川県珠洲市の倒さスギは、そんなイメージを覆してくれる独特の風景の中に私たちを連れて行ってくれます。
では出発!

独特の風景と形

倒さ杉遠景
倒さスギ遠景(2017年8月撮影©KY)

この倒さスギ、田んぼの真ん中にあるんですよ。目立ちますよね!

説明版によると樹齢は約850年だそうで、ネットで見つかる情報では700年~900年とばらつきがありますが、鎌倉時代から存在していたと考えるだけで、その歴史の長さに圧倒されます。

幹回り約6.74メートル、高さ12メートル、そしてなんと枝の広がりが30メートルにもなるそうです。もしかすると上に伸びずに下の方に広がっていったからこそ、この枝ぶりになったのかもしれないですね。

なぜ「倒さスギ」?

「さかさ」の漢字が「逆さ」でなく、「倒さ」になっているので、最初は読み方がわかりませんでした。それと、この木を実際に見ても、なぜ「さかさ」なのか全くわからない私。

説明版によると「すべての枝が下方に垂れ、地面につくものものある。こうした樹形はまことに珍しくみごとであり、この名の由来があると思われる」。

実際は、上の方の枝は普通に伸びているように見えますが、地面を這うように伸びている枝から力強さや雄大さを感じます。自然が作り上げたひとつの芸術作品。

周辺の広々とした田園風景と枝の広がりが非常にバランスよくマッチしていて、清々しい気持ちになります。

実は他にもある逆さ杉

倒さ杉といった名がついている木は他にもあるのかと思って調べてみたところ、逆さ杉と呼ばれるスギは全国に何本もあることがわかりました。例えば栃木県の塩原八幡宮境内にある逆さ杉。これは樹齢が1500年と更に古い木ですが、ネットで公開されている写真では地面に這うような枝はないようですが、2本並んで根元がひとつになっていて「夫婦杉」とも呼ばれています。

福島県玉川村にある川辺八幡神社の逆さ杉も樹齢1000年という古木。栃木県の塩原八幡宮の逆さ杉と同様、高く伸びているので、一口に「逆さ杉」と言ってもいろいろな形があり、それぞれに個性があります。

珠洲市の倒さスギにまつわる伝説

珠洲市の倒さスギには、八百比丘尼が昼食に使った杉箸を地面に刺したものが大きくなったという言い伝えがあります。

八百比丘尼ですが、読み方は「やおびくに」と「はっぴゃくびくに」の2通りあるようですね。

珠洲市役所のサイトからの引用です:

「この杉の周辺は、かつて高照寺の境内で、中世の頃は、七堂伽藍を擁した霊場であったという。それにまつわる伝説がある。若狭の八百比丘尼(はっぴゃくびくに)が能登行脚の途中、眼病を患ったので、高照寺の薬師如来に祈願をし、千万遍の念仏を唱えることで、病は快癒した。境内でお昼を食べ、杉の箸を地面に刺したところ、枝葉が伸びだしたが、刺した方向が逆さまだったので、逆さに生えてしまったのだという。」(CC BY珠洲市役所)

八百比丘尼についての伝説は土地によって違いはあるものの、人魚の肉だと知らずに食べてしまった娘(または妻)が、ずっと若い姿のまま(不老不死)になってしまったことに苦しみ、諸国行脚の旅に出て人々を助けた、という話は多くの伝承で共通しているようです。故郷の若狭(福井県)に戻り洞穴に入って亡くなったとのことで、福井県小浜市には八百比丘尼の入定洞(にゅうじょうどう)があることがわかりました。

長野県戸隠神社の三本杉にまつわる言い伝えは、人魚の肉を食べたことと八百比丘という名前は共通していますが、登場人物や木の発生の仕方が異なります。この伝説での八百比丘は、主人公の漁師が出家してからの名前で、八百比丘尼という女性は登場しません。

いろいろ調べているうちに、比丘(びく)と比丘尼(びくに)というのは、戒名や法名と呼ばれる出家後の個人名ではなく(例えば僧なら空海、尼僧なら天璋院)、比丘は僧、比丘尼は尼僧のことだとわかりました。八百比丘尼の場合だと、八百が個人名ということでしょうか?白比丘尼という名前で紹介されている場合もありますが、それならなぜ八百と白になってしまったのか謎が残ります。

それにしてもなぜ伝説で人魚の肉なのか・・・人魚と言えば、私は小川未明の童話『赤い蝋燭と人魚』に親しんでいたので、八百比丘尼の伝説で人魚が肉として食されてしまう存在としてのみ登場させられてしまっているところに驚愕しました。。。

さて、この伝説にもある高照寺(高勝寺という表記もある)に関しては、高野山真言宗であること以外の情報はほとんど見つからず、八百比丘尼が祈願したとされる薬師如来のことなどはわかりませんでした。

倒さスギは境内の外にあり、地面に伸びた杉の枝の近くに小さな祠はありますが、私などは近くにお寺があることさえ気がつかなったぐらいです。ただ、杉の近くにあった石碑から少しだけ情報を得ることができました。

倒さ杉の石碑
倒さ杉の石碑(2017年8月撮影©KY)

江戸時代の記録

この石碑は、文章全部は読みとれないのですので、倒さスギの近くの石碑ということで検索してみたところ、珠洲市の市議会だより(平成29年11月1日発行No.6)に写真とともに説明がありました。

それによると、この石碑は太田道兼の歌碑で、歌は「三輪ならで ここにもありや一本の 杉のみどりの志るしさかえて」だそうです。

三輪というのは、神の山として信仰されている奈良県の三輪山のことで、杉や松などの大木があり、特に杉は神聖なものとして考えられているそうです。

太田道兼は江戸中期・田沼意次時代の官吏で、諱(いみな)を頼資といい、『能登名跡誌』の著者(著者名は太田頼資の方で記録されている)だそうで、その抜粋から、高照寺は七堂伽藍の大きなお寺であったこと、その当時から倒さスギは一本杉であったこと、そして八百比丘尼(原文では八百比丘尼ではなく百比丘尼)の箸の伝説が伝わっていたこともわかりました。『能登名跡誌』は、1931年と1970年にも出版されたようで、専門家の間ではよく知られた本なのかもしれません。

ちなみに歌碑の設置は1988年(昭和63年)とのことです。

杉について

さて、杉と言うと、とても身近にあって、どこでも見かけるような気がしますが、杉を見ないで思い出してみようとすると、私の場合は、漠然としか頭に浮かびません。比較的イメージしやすいのが、スギ花粉が飛んでいる様子とか・・・

スギは日本固有の樹木で、地域によって様々な品種(地域品種)に分類されているようです。例えば屋久島の屋久杉は、本やテレビなどで写真や画像を見たことがありますよね。驚いたことに、杉は日本で一番高く成長する木で、大きいものは50メートル以上になるそうです。そして樹齢2000年から3000年までとされる杉が全国各地にあるそうなんです。

加工しやすく成長も早いことから、木材としての杉の利用が始まったのは縄文時代にまで遡るそうで、建築材から船や酒樽まで幅広く日本の生活に使われてきたんですね。

この加工のしやすさですが、のこぎりも無かったような時代でも、木目に沿って割ることができたからなんだそうです。なるほど!

ところで杉はまっすぐだというイメージがありますよね。まっすぐな「直(す)ぐ木」ということから「スギ」と呼ばれるようになったという説明をいろいろなサイトで見かけました。

こうした杉の一般的な特徴からすると、「倒さスギ」は意表を突く場所に1本だけで、しかも独特の形で、本当に特異な存在です。

箸の材料

八百比丘尼は杉で作られた箸を地面に刺したのですが、箸の材料になる木の種類は杉が多いのでしょうか?

八百比丘尼の言い伝えは鎌倉時代から室町時代にかけて広がったと考えられているようです。

一方、箸が7世紀に遣隋使によって中国から日本に伝えられ、一般に普及していったのは、平安後期から鎌倉時代にかけてとされているので、八百比丘尼の時代には箸が日本人の生活に浸透していたと言えます。特に、鎌倉時代には、箸と併用されていた匙が使われなくなり、箸だけを用いるようになったという点も興味深いですね。

素材に関しては、箸が伝えられた当初は竹が主流であり、木製の場合は、竹以外では、ひのき、柳、松、萩などが使われ、杉は吉野の後醍醐天皇(14世紀)が献上された杉箸を喜んだという言い伝えがあり、ちょうど八百比丘尼の伝説が広まった頃にあたります。

調べていくと、八百比丘尼だけでなく、高僧や歴史上の人物が使った箸を地面に立てたところ大木になったという言い伝えはいくつもあり、それは「箸立て伝説」と呼ばれていることがわかりました。

箸立て伝説とは?

なぜ箸を地面に立てるのでしょうか?箸に使った人の魂が乗りうつると考えられ、使用した後で折って捨てている習慣があったことや、もともと箸は祭礼に使われ、神とつながりをもつものであったことなど、地面に立てることで神の依り代としたのではないかと考えられるようです。

八百比丘尼の場合は、眼病が治るように高勝寺の薬師如来への祈願したいうことになっています。柳田国男の『日本の伝説』の中に「御箸成長」という見出しがあり、全国で知られている「箸立て伝説」を伝えているほか、お祭りの祈りに木の串または枝を土にさす習慣があったことや、新しい箸をけずって祭りの食事を神と共にする習慣があったという説明もあります。つまり、お弁当の箸とは言っても、神仏と食事した時に使った箸に祈りを込めて地面に箸を立てたとも考えられます。

『日本の伝説』の中では、八百比丘尼は白比丘尼という名前で紹介されていますが、それによると、珠洲の逆さ杉だけでなく、白比丘尼は諸国巡りで杖や椿の小枝をさしてそれが大木になったものがいくつもあるとのことで、その他の情報からも、八百比丘尼の伝説は非常に多くのパターンがあり、植樹によるものもたくさんあることがわかりました。八百比丘尼は特に白椿を好んだとされています。

地面に這うような形

日本海側に分布する杉はウラスギ、太平洋側に分布する杉はオモテスギとして区分され、遺伝的にも異なるものだそうです。また、ウラスギは雪の重みによって枝がたわみ、地面に付いた部分から根が出て株になる(伏条更新)ことがあるとのことで、この特徴を持つものとして、富山県入善市の杉沢の沢スギが知られています。珠洲市の倒さスギの枝の中には、完全に地面に接している部分もありますが、そこから根が出ているようには見えませんでしたし、新しい株ではなく、あくまでも枝のまま地面に近いところでくねくね曲がっているとしか言いようがありません。枝が下に向かって曲がった理由は何でしょうか?枝の太さからすると、雪の重みによるものとは思えないのですが・・・不思議な現象、水田が描く海原のような広々とした場所にポツンと見える船か島のような姿、八百比丘尼の伝説と言い、そこだけ非日常の時間が流れているかのようです。

旅のアイデア

珠洲に行くなら「見附島(別名:軍艦島)」もおすすめスポットです。倒さスギも独特の景観を作り出していますが、この見附島も一度見たら忘れられない風景のひとつになること間違いなしです。

見附島
見附島(軍艦島)(2017年8月撮影©KY)

今回の旅を振り返って

倒さスギにまつわる伝説から、木にまつわる伝説は非常に多種多様で、それは世界中に見られる人間と木との関係であることがわかりました。人間の木に対する想像力とはなんと豊かなことでしょうか。木は、草花のように四季の移り変わりによって咲いたり枯れたりせず、たとえ落葉樹であっても一年を通じて、そして長い年月を経ても風景の中にいつも存在しているもので、人間にとって一番身近に感じられる植物なのかもしれませんね。

木を見るということは、その木を見た昔の人々も、その木を見るであろう未来の人々とも何かつながっているような気がしてきます。

この記事を読んでいただいてどうもありがとうございました。

主な出典(順不同)(本文内に入れたものは省略してあります):

ええやん!若狭の國・若狭おばま観光協会
戸隠神社
日本植物生理学会-みんなのひろば-植物Q&A
にゅうぜんマニア・入善町観光物産協会
農林水産省-特集2お箸のはなし(1)
すず観光ナビネット
とちぎ旅ネット-逆杉
福島民報~年輪刻んで~ふくしまの名木
石川県-倒スギ
ふくいドットコム-八百比丘尼入定洞
三輪明神大神(おおみわ)神社-三輪山
みんなの趣味の園芸NHK出版-スギ
森林・林業学習館
樹木図鑑
材木育種センター『材木遺伝資源情報第10号-5(2006.9)』(PDF)
木材博物館
柳田国男『日本の伝説』(青空文庫)
藤原繁『箸の文化と割箸の歴史地理:奈良吉野下市の割箸を主として』(PDF)
九頭見和夫『日本の「人魚」伝説-「八百比丘尼伝説」を中心として-』(PDF)
向井由紀子、橋本慶子、長谷川千鶴『わが国における食事用の二本箸の起源と割箸について』(国立国会図書館デジタルコレクション、ファイル名:ART0001973969.pdf)

「お宮の松」に見る熱海の今昔と将来

静岡県熱海市(しずおかけんあたみし)

「お宮の松」

お宮の松
熱海のお宮の松(2016年2月撮影©MY)

出発

皆様こんにちは。

だんだん木々の芽が膨らんできたように見えるこの頃です。

父から送ってもらった写真の中には、弥彦の蛸ケヤキを超えられる落葉樹のものがなかったので、撮影時期が1月から3月までという基準にして選んだのが「熱海のお宮の松」の写真です。

『お正月の門松』でも書いたように松は常緑樹なので落葉しないですが、枝の形を鑑賞できる木ですよね。

さて、今回はどんな旅になることでしょうか。出発!

 

どうして「お宮の松」という名前が?

ネットで調べれば理由はすぐにわかりますが、まず、お宮というのは明治時代の尾崎紅葉(おざきこうよう)の小説『金色夜叉(こんじきやしゃ)』のヒロインの名前です。物語の中で、主人公である寛一(かんいち)との別れのシーンの舞台が熱海海岸なのだそうです。

この小説のために松を植えたわけではなく、小説ができる以前に松があり、美しいことから「羽衣の松」と呼ばれていたのだそうです。

金色夜叉の人気とともに舞台となった熱海が有名になり、「金色夜叉の碑」が「羽衣の松」の近くに作られたりして、次第に「お宮の松」と呼ばれるようになったとのことです。

美しいことから「羽衣の松」と呼ばれると言われても、羽衣というものが何であるかよくわかりません。「羽衣の松」という名で有名なのは、同じ静岡県内の「三保(みほ)の松原」ですが、これについてはまた別の機会に調べてみようと思います。

現在の松は2代目で、初代の松は、江戸時代に老中の松平信綱(まつだいらのぶつな)が植えさせた松の1本と言われているそうです。松平信綱は伊豆守(いずのかみ)という官位を与えられていて、「知恵伊豆」とも呼ばれ、伊豆巡視の際にこの地に松を植えさせたとのことです。

「金色夜叉の碑」は、尾崎紅葉を師とする小栗風葉(おぐりふうよう)の金色夜叉の句が書かれたもので、お宮の松の近くには、初代お宮の松の切り株、館野弘青(たてのこうせい)作「貫一お宮の像」もあります。この像は、熱海海岸で貫一がお宮を足蹴にする有名なシーンが再現されたものです。

貫一お宮の像
熱海市フォトライブラリーより-貫一お宮の像

金色夜叉の碑
紅葉山人記念・金色夜叉の碑
(2016年2月撮影©MY)

と言っても、私は『金色夜叉』という題名とこの名場面ぐらいしか知らなかったので、近年この足蹴シーンの像に対して様々な意見が出されて、説明版が加えられたりすることによって、小説を知るきっかけになっていいのではないでしょうか。

先日古い外国映画を観ていたら、エレベーターの中でタバコを吸っているシーンがあって驚きましたが、生活スタイルや社会の価値観の移り変わりってこんなものですよね。

尾崎紅葉の金色夜叉は未完だったので、小栗風葉が続編として「後の金色夜叉」という小説を書いたそうですし、金色夜叉は歌も作られ、何度も舞台化や映画化されて、長く人々に親しまれてきたということがわかりました。

ところで夜叉ってなんでしょうか?

もともとはインドの半神半鬼で、仏教では仏法を守る八部衆(8対1組の神)の1柱だそうですが、金色夜叉ではそうした仏法を守る神という意味では使われていないようです。これ以上の情報は簡単には見つかりそうもなかったので、夜叉についてはこのくらいにして、他に気になる点から「お宮の松」の旅を続けることにします。

 

初代のお宮の松について

松が2代目になったのは、初代の松が、キティ台風によるダメージや、車の衝突、排気ガスなどによって枯れてきたからだそうです。

キティ台風:1949年に関東地方に上陸し大災害を引き起こした。

1958年(昭和33年)に撮影された写真を見ると、初代は道路の真ん中にあり、両側にバスや車が走っているという、まさに交通事故の危険と排気ガスに常にさらされている状態です。

初代のお宮の松があった場所に記念プレートが埋められていますが、道路の真ん中ですから写真を撮るのも大変ではないでしょうか?

初代お宮の松は、展示されている切り株のほかに、1968年に貫一とお宮を模したこけしが作られました。現存するのは13対で(全部で何対作られたかは情報なし)、2014年に、1対がそれまで所有していた小学校から熱海の起雲閣(きうんかく)に寄贈されたそうです。

2代目登場の話は、熱海市のホームページに詳しく書かれています。

 

2代目お宮の松にまつわる話が面白い

熱海市のホームページで閲覧できるのは、2代目が植えられて2年目の1968年に「東海民報」に10回連載された記事です。

熱海市ホームページ『新 お宮の松誕生記』

2代目の松を見つけるまでの苦労や、盛大に行われた植樹祭(誕生祭)の記念行事の様子など、いろいろなエピソードが、筆者のユーモアあふれる文体で生き生きと伝えられていますので、是非読んでみてくださいね。

私が特に注目した点のひとつは、2代目が計画されたときに、初代お宮の松を擬人化して、2代目の登場を人々に知らせるという演出方法です。筆者はこれを「松に独白させた」と呼んでいますが、こういった方法だと、より一層お宮の松に親しみを覚えますよね。

もうひとつは、お宮の松の両脇に植えられたという木の話です。最初に2代目お宮の松の候補になった松は輸送の難しさから断念されたのですが、同じ敷地にあった桜を筆者がとても気に入ったことから、その桜だけでなく梅まで一緒に寄付してもらえて、2代目お宮の松の両脇に植えたのだそうです。しかもそれだけではありません。お宮の松には「添え松」も欲しいとのことで、「添え松」1本も植えられたのです。このエピソードも面白いですよ。

ただ、この桜(寒緋桜のようです)、梅、添え松は今はお宮の松の近くにないようですが、どうなのでしょうか?「お宮の松」がある場所は、平成13年(2001年)3月に土壌改良と排水工事等が完了して現在のようになったそうで、これ以前に撮影されたと思われる写真では、貫一・お宮の像が松の向かって左側にある(現在は向かって右側)ので、この工事の時に移転されたのかもしれないですね。

また、初代お宮の松には「のこ入れ式」が執り行われて、お経があげられ、2代目の根の下に、初代の枝と『金色夜叉』の初版が埋められたそうです。植樹祭がお披露目式というだけでなく、初代と2代目の2本の松に対する人々の敬意が込められた式典だったんですね。

あれこれネットで調べているうちに見つかった情報と写真によると、2代目お宮の松も20年ほど前に衰弱が目立つようになったらしく、世代交代の時と同様の「独白」形式で、その状況を人々に知らせる看板が立ったようです。

 

「お宮の松」はクロマツ

「お宮の松」の名前の由来や、木の歴史については、今まで書いたように情報が入手しやすいのですが、樹木としての情報が見つからず困っていたところ、説明版の画像を見つけました。この説明版によると種類はクロマツです。

初代のお宮の松の樹齢が300年以上、2代目の最初の候補となった松の樹齢も300年ぐらいとのことですが、2代目は2001年に約95年となっていますから、2018年で約112年ですね。ちなみに、2代目は、当時の熱海ホテル庭園内にあったものだそうです。

 

クロマツと海岸の松林

『お正月の門松』でアカマツは山林に、クロマツは海岸沿いに多いということを知ったのですが、では、なぜクロマツは海辺でよく生育するのでしょうか?

調べていくうちに、クロマツは海岸でよく生育するという考え方よりも、クロマツは海岸の条件に適した木であることから、日本ではクロマツが海岸に植えられてきたという歴史に注目すべきだということがわかりました。

防風林や砂防林として、防災の機能が果たせる木として、日本の海岸に植えられてきたのです。

でも、クロマツの自生林がなかったわけではありません。クロマツはもともと海岸部に自生していたと考えられており、皇居前に約2000本あるクロマツは、植栽によって今のような風景になっていますが、江戸城ができる前は一帯が入り江になっていて、そこにクロマツが自生していたのだそうです。

海岸部に自生している木ということでクロマツが植栽のために選ばれたのかというと、そうでもないようです。

財団法人日本緑化センターの『日本の松原物語-海岸林の過去・現在・未来を考える』(平成21年8月)には、江戸時代の海岸砂防植栽の全国的な実施状況が一覧表で紹介されていますが、それを見ると、松以外にも、杉、雑木、柳、ネムノキ、グミなども植栽されたことがわかります。

この一覧表には、植栽を企画・実施した人の名前と職業も記載されています。藩の命令によるものだけでなく、個人で実現したものも数多く、自費を投じて実施したケースや、植栽の方法を工夫して松林造成の成功に至った経緯など、貴重な記録もあります。

クロマツ以外では、ネムノキとアキグミを除いては成功例がほとんどないため、最終的にクロマツが植栽する木として一般化していったことが明らかにされています。

松原の植栽の歴史からすると、日本書紀にも植栽や飛砂防備林に関する記述があるようですが、特に江戸時代になってから海岸砂丘地に砂防林として松原の造成が行われました。それには当時、飛砂害(ひさがい)が深刻になっていたという背景があります。

クロマツが海岸に適している理由をまとめてみました:

  • 常緑針葉樹は、落葉広葉樹より乾燥に耐える性質が強い。
  • 成長が早い。主軸は1年に70センチ伸びる。
  • 塩の害に強い。葉の内部構造が水溶性物質の流動を抑え、海水の塩分が入らないようにする。葉が細いので、風に運ばれてくる砂が地面に落ちやすい。
  • 地中深くまで根が伸び、大きく広がる。
  • 全体が傘を広げたような形になり、日光を受けやすい。
  • 葉は2枚または1枚(クロマツという分類が更に下位に分類できるようです)。

海岸の松林は第二次世界大戦中に荒廃し、飛砂害が深刻化したため、戦後になって砂防植林が全国的な事業としてすすめられたおかげで、1960年代末頃に現在の海岸林の状態ができあがったそうですが、問題はその後も続いています。

クロマツ海岸林も植林しただけでは十分に維持できず、過剰な密集、病虫害、広葉樹林の侵入など様々な問題への対策が必要であることがわかりました。

広葉樹は海岸には適さないはずなのに、なぜ侵入できるのでしょうか?それは、クロマツが増えることによって松林の内陸側が肥沃になるからだそうです。

松林が衰退する原因や状況に合わせ、各地で海岸防災林再生の活動が行われています。

ところで「お宮の松」は松林の中にありませんよね。周辺はどうなっているのでしょうか?

 

お宮の松のある場所「お宮緑地」

お宮の松があるのは、熱海海岸の中でも、国道とサンビーチに挟まれた「お宮緑地」と呼ばれる緑地ゾーンで、松林ではありません。

この「お宮緑地」が完成するまではどうだったのでしょうか?

「お宮の松」は初代の頃から1本だけで、周りに松林はなかったようです。

江戸時代に盛んだった松林造成は、熱海でも行われたのでしょうか?

はっきりした答えが見つからないので、当時の風景画を調べてみました。

1681年(天和元)年に描かれた『豆州熱海絵図』は、熱海を詳細に描いていますが、残念ながら海岸の様子がよくわかりません。ただ、岩が突き出した部分はリアルに描かれているので、あいまいな部分は砂浜ということだと思います。そこに木はありません。

また、他の絵や写真を見ても、松林は見つかりませんでした。

名勝八景 熱海夕照
国立国会図書館デジタルコレクションより-
豊国作
『名勝八景 熱海夕照』
制作年不詳

日本名勝旧蹟産業写真集
国立国会図書館デジタルコレクションより-
西田繁造編
『日本名勝旧蹟産業写真集-奥羽・中部地方之部』
大正7年出版

ところが、『金色夜叉』の挿絵のひとつに松林が描かれているものがありました。(著作権フリーの画像がなかったので『港区ゆかりの人物データベース』というサイトからご覧ください)

尾崎紅葉と交流の深かった武内桂舟(たけうちけいしゅう)の作品ですが、貫一の後ろに松林が描かれています。でも・・・

松林の根が波をかぶりそうなぐらい、海と松林が近すぎて、なんとなく現実味に欠けるような。。。まあ、挿絵なので物語の中での熱海海岸なのかもしれません。

明治時代の絵師・山本光一の作品に熱海海岸部が描かれているものがいくつかありますが、松は点在するような感じで、初代お宮の松が1本だけそこにあったとしても不思議ではない風景です。

熱海市ホームページ(山本光一『熱海八景』の掲載ページ)

個人的な推測ですが、熱海では松林を造成する必要がなかったのではないでしょうか。江戸時代の松の植栽の目的が防砂林としての利用であれば、飛砂の害がない場所では、多くのお金や労力をかけて松林を作らなくていいわけです。

熱海は小さな湾のような形で山に囲まれているという地形的条件によって、強風から守られて飛砂の害がなかったのかもしれません。

熱海には砂浜がなく、岩場だけだったからというのも考えられますが、明治時代には砂浜が広がっていたと書いている資料もあるので、砂浜はあったけれども、松林なしで大丈夫だったので作らなかったのではないかと勝手に想像します。

また、昭和に入って海岸線の埋め立てが進められて、現在は全て人工砂浜だそうです。

お宮緑地には、2014年(平成26年)に「ジャカランダ遊歩道」が完成して、お宮の松とジャカランダ並木のコラボにヤシの木もミックスされた、オリジナリティ溢れるエリアになっています。

お宮の松の独白という手法といい、熱海市は町の雰囲気を盛り上げる演出が上手ですねえ。

ジャカランダの紫色の花が咲く6月にフェスティバルも開催されます。

ジャカランダ:南米産のノウゼンカズラ科の木で、紫色の花をつける。

ジャカランダ遊歩道
熱海市フォトライブラリーより-
ジャカランダ遊歩道

『金色夜叉』の方は、貫一・お宮の別れのシーンが1月17日の月の夜だったことから、1月17日に「尾崎紅葉筆塚祭」と「尾崎紅葉祭」が開催されます。

「湯宿一番地」敷地内にある筆塚には、尾崎紅葉が生前使用していた筆が祀られているそうです。

 

ちょっと寄り道

熱海では、お宮の松のように日本の伝統的な木の姿を描いているものもあれば、異国情緒の溢れるヤシの木も並んでいます。

熱海のヤシの木
熱海のヤシの木
(2016年2月撮影©MY)

父が送ってくれたヤシ並木の写真です。これだけ見ると、ハワイ?

ヤシにもいろいろな種類があるはずなので、これはどの種類なのか・・・「背の高いヤシの木」で検索していったところ、「ワシントンヤシモドキ」という種類のようです。

それにしても背が高い!

熱海市の木は熱海桜(アタミザクラ)、熱海市の花は梅ですが、熱海桜は寒緋桜(カンヒザクラ)と山桜(ヤマザクラ)の交配種だそうです。1871年(明治4年)頃イタリア人によって、レモン・ナツメヤシとともに熱海にもたらされた品種ということですが、開花時期が1月、開花期間が1か月と、驚かされることばかりです。

梅の方はどうかと言えば、人気スポットである熱海梅園が1886年(明治19年)に開園しているので、市の木と花に選ばれているのも納得できます。

ちなみに熱海の梅も日本一早咲きらしいですよ。もしかして今が見ごろでしょうか?

多種多様な木と花が溢れる熱海で、松は少数派のようです。貴重な「お宮の松」はエキゾチックな木や草花に囲まれて、熱海の有名な景観を作り出しているんですね。

 

お宮の松と熱海の移り変わり

お正月の門松』で、門松では松は歳神様の依代、『まさに「けやけき木」、弥彦の「蛸ケヤキ」』で、高砂神社の相生の霊松(あいおいのれいまつ)は尉(じょう)と姥(うば)の2神(イザナギとイザナミと考えられている)、というように、松と神様の結びつきを知ったのですが、「お宮の松」は松との接し方が全く異なります。

「お宮の松」は、『金色夜叉』という小説の人気と熱海の大衆観光化の中でこの名前が付いたのですから、もし海岸にあった木が松でなかったとしても「お宮の・・・」と名前が付いていたのかもしれません。

また、2代目を見つけるという過程においては、神秘性は必要なく、見た目の素晴らしさが一番重要であると同時に、輸送で困らない場所にあるというのも選択基準となっていました。

さて、熱海は『金色夜叉』によって一般大衆の人気観光地となりましたが、ここで忘れてはいけない熱海の特徴と言えば温泉ですよね!

熱海の温泉としての最古の記録は鎌倉時代に遡るそうですが、大きな発展は、徳川家康が熱海の温泉を気に入ったことに始まるそうです。その後、温泉の名所として知られていきますが、交通が不便だったこともあり、『金色夜叉』の書かれた時代には、皇族、政治家や文化人といった一部の人々の保養地だったのです。一般大衆の温泉観光地となったのは、丹那(たんな)トンネルの開通(1934年)によってアクセスが良くなってからだそうです。

その後の熱海は、バブル崩壊後(1990年代)から衰退し続けた後、最近ではその危機を乗り越えてV字回復していると言われています。実際はどうなのかまだわからないと思いますが、2010年頃から町の現状チェックに基づく活性化計画・都市計画を作って、それを推進している点では、かつての受動的な変貌から脱け出して、主体的な展開に変わったようです。それには温泉の町という熱海の原点がベースになっています。

『金色夜叉』も、主人公の生きた時代は今では遠い昔のことですが、お金と恋愛というテーマによって時代を超えて親しまれる(小説を読まなくても・・・!)物語です。つまりその部分は変わらないので、登場人物の服装や持ち物を変えるだけで現代版が作れるという普遍性がありますよね。

こうして貫一とお宮の世界は、温泉街の発展と衰退、そして再興という流れと一体化して、時間とともに発展しているような感じがしないでしょうか。

松が代替わりしても、周辺の海岸風景や町がどんどん変わっていっても、「お宮の松」は、熱海の温泉地としての歴史や文化を伝えていく、温泉観光地である熱海の地域アイデンティティーの象徴のように見えます。

熱海港
熱海港(2016年2月撮影©MY)

 

旅のアイデア

熱海温泉や海とは逆方向になりますが、熱海市内に巨樹があることがわかりました。

來宮神社(きのみやじんじゃ)の「大楠」です。
樹齢がなんと2000年以上!太さが全国2位。
しかも2本もあるんですよ。そのうちの1本が御神木になっています。

国の天然記念物に指定されていますが、名称は、「阿豆佐和気神社(あずさわけじんじゃのおおくす)の大クス」となっているので、データベースではこの名称で検索するといいですよ。

熱海の樹木でもう1本気になるのが、伊豆山神社(いずさんじんじゃ)の神木「梛(ナギ)の木」です。
この神社は源頼朝と北条政子の逢瀬の場だったそうで、政子は梛の葉に二人の名前を刻んで手鏡の下に置いて祈っていたと伝えられています。
鎌倉時代幕開けの主人公夫婦にこんなエピソードがあったなんて、微笑ましいですね。

また、アカオハーブ&ローズガーデンには世界最大の盆栽があるそうです。

 

今回の旅を振り返って

私は2013年に熱海に1泊したことがありますが、熱海城に行った後で雨に降られてしまったので、「お宮の松」は見に行きませんでした。今回この松について調べることになり、そこから早咲きの梅や桜、來宮神社や伊豆山神社のことも知ることができました。

熱海は駅も2016年にリニューアルされて、これからも新しい空間や建物の占める割合が増えていくようですが、そうした変化の中で、歴史のある「お宮の松」の果たす役割は益々大きくなっていくことでしょう。

熱海のことをほとんど知らない人間が、熱海についてあれやこれや書いて申し訳ないですが、益々魅力を増して発展していくことを期待しています!

実際にまた旅をする機会があったら、「お宮の松」も含めて、前回見れなかった場所や新しくできたものを見に行きたいと思います。

熱海城
熱海城(2016年2月撮影©MY)

この記事を読んでいただいてどうもありがとうございました。

 

主な出典(順不同)(本文内に入れたものは省略してあります):

熱海市ホームページ・あたみニュース
SPinfo
ぶらっと旅へ
あたみのまんなか
木の情報発信基地
みんカラ
森林・林業学習館
マツはなぜ海岸に多いのか
中島勇喜『森林の力が暮らしを守る。海辺の最前線に生きる、海岸林の可能性』
環境省・皇居外苑・クロマツ
多摩森林科学館
熱帯植物館
静岡・浜松・伊豆情報局
文化庁・国指定文化財等データベース
都道府県市町村シンボル
熱海まち歩きガイドの会『あたみ桜と河津桜は、どう違うの?』
熱海ネット新聞2014年4月19日記事
熱海ネット新聞2016年1月17日記事
熱海市建設部まちづくり課都市デザイン室『熱海まちづくりビジョン』
国土技術政策総合研究所『第 1 章 海岸管理の歴史的変遷』
太田猛彦『海岸林形成の歴史』
梅津勘『樹木医学の基礎講座 海岸林講座第1回:日本の海岸林の成り立ちと推移-庄内海岸林を中心に─』
法政大学大学院デザイン工学研究科紀要Vol.3(2014年3月)駒井穂乃美『地形から読み解く熱海温泉の空間構造』

 

まさに「けやけき木」、弥彦の「蛸ケヤキ」

新潟県 弥彦村 (にいがたけん やひこむら)
弥彦神社の末社 住吉神社(すみよしじんじゃ)
「蛸(たこ)ケヤキ」

県指定天然記念物
樹齢800年以上とされる(資料によっては1000年以上)。
樹高約30m。幹周約8m。

蛸ケヤキ
弥彦神社の末社住吉神社の蛸ケヤキ(2016年11月撮影©MY)

出発

皆様、こんにちは。

2018年が皆様にとって良い1年になりますようお祈りいたします。

さて、父から送ってもらった木の写真の中から、今回は冬の季節に合った写真を選びました。

新潟県西蒲原郡弥彦村(にしかんばらぐんやひこむら)にある
弥彦(彌彦)神社の末社(まっしゃ)のひとつ住吉神社の蛸ケヤキです。

11月の撮影で葉が落ちているので、ケヤキが落葉樹だということがわかりやすくていいかもしれません。

鳥居が前にあるので、ケヤキ自体が神社なのかな?と思わせる、不思議な構図だと思いませんか?

では、1本の木から始まる発見の旅へ、出発!

 

ケヤキってよく聞くけど、どんな木なのか知らない

落葉樹だということは写真でわかりましたが、幹や葉を見てケヤキだとわかる特徴はあるのでしょうか?

小豆島・宝生院のシンパク(イブキ)のように針葉樹だと葉の識別さえ難しいですが、広葉樹なら葉は観察しやすいはず。ただし形が似ている葉を持っている木は多いんじゃないかな?なとど思っていると、素晴らしい検索サイトを発見!「樹木検索図鑑」(企画:千葉県立中央博物館、製作:斎木健一氏、天野誠氏、ビジオ氏)。名前が既にわかっているので、ケヤキの特徴を調べるのに使わせていただきました。

分布情報、材木としての利用、名前の由来など、他のサイトも参照してまとめてみました。

名前:ケヤキ(欅)Zelkova serrata
別名:ツキ(槻)
分類:ニレ科ケヤキ属
平均的な高さ:20メートル~30メートル。
分布分布範囲が狭い。東アジアの一部、日本の本州、四国、九州の丘陵地帯や山地に自生。

:長細い楕円形で先がとがっていて、葉の周りがギザギザしている。
長さが3~14センチと、葉によってかなり違うらしい。色は明る目の緑(写真で見た感じ)。
真ん中に太い葉脈1本あり、そこから外側に向かって太めの葉脈がいくつも均一に並んでいる。
また、葉はざらざらしているので、乾燥させて紙ヤスリの代わりに使えるそうです。

樹皮:これにはビックリ!若い木と樹齢の進んだ木では、全然違う木のように見える。若い木の樹皮はグレーのような色合いで、でこぼこした黒っぽい横線のようなものがたくさんある(皮目というそうです)。
樹齢が進んだ木は、樹皮がボロボロと剥がれている。剥がれていって、最後はどうなるのでしょうか?

:雌雄同株(しゆうどうしゅ)と言って、雌花と雄花が同じ株につくもの。「株」は、ケヤキの場合は木なので、1本の木に雌花と雄花がつくということだと思う。開花時期は4月~5月。

:そう果(薄くて皮に種が包まれている)。5mm位の偏球形で枝ともに落ちる。
果期:10月頃。

木材として
重硬で、強い。建築、家具、太鼓の胴、臼・杵、彫刻など、用途が広い。
色は、オレンジ系または黄色系で明るく薄い色、磨くと光沢が出る。
木によって木目模様に大きな個性が出る。

「ケヤキ」の名前の由来
「けやけき木」、「目立つ、ひときわ優れている、顕著な木」という意味とのこと。
「ツキ(槻)」の方は、別名というより、万葉集では「ツキ」が使われていて、「ケヤキ」の方がその後に発生したようです。「ツキ」は木が強靭なことから「強木」が由来になっているそうです。

見られる場所

  • 神社やお寺、都市でも並木として植えられている。
    東京都の明治神宮表参道のケヤキ並木、東京都府中市の馬場大門のケヤキ並木(大國魂神社おおくにたまじんじゃの参道)、埼玉県のさいたま市から所沢市までの国道463号のケヤキ並木、宮城県仙台市定禅寺通り(じょうぜんじどおり)のケヤキ並木など。
  • 線路を守るための鉄道林として鉄道沿線に植えられていることがある。
  • 清水寺の舞台の柱に使われている。
  • 耐久力があり、音の反響がよく、また木目が美しいので和太鼓の胴の部分に使われる。
  • 昔は電柱に使われていた。

 

なぜ「蛸ケヤキ」という名前なの?

大枝が伸びて広がり大蛸の八本足のように見えることから、この名がついたそうです。

ただ、老木で枝が弱ってしまったため、何本か切られて、今は大枝は5本ぐらいのようですが、このように大きな枝が何本もある木は、他の角度から見ると、ずいぶん雰囲気が違います。鳥居の斜め後ろの方から見るとこんな感じです。

弥彦の蛸ケヤキB
別の角度から見た蛸ケヤキ(2016年11月撮影©MY)

中太の枝は切られてしまったのでしょうか、太い枝からいきなり細い枝になっているようにも見え、非常に個性的な形です。個人的には、現代アート風に鑑賞したいような気もします・・・鳥居や祠が写っている部分を加工するのは恐れ多いので、木の部分だけモノクロにみました。

弥彦の蛸ケヤキblack1
弥彦の蛸ケヤキblack1

弥彦の蛸ケヤキblack2
弥彦の蛸ケヤキblack2

弥彦の蛸ケヤキblack3
弥彦の蛸ケヤキblack3

他のサイトでは葉が茂っている時期の写真も見られるので、比べると面白いですよ。

 

「蛸ケヤキ」と神社の関係

さて、「蛸ケヤキ」はアーティスティックな形もさることながら、最初に書いたように、鳥居の奥に木があるという不思議な配置で、まるでこのケヤキのために神社が作られたような印象を受けます。

ちなみに、神社の名前は住吉神社で、弥彦神社(彌彦神社)の末社(まっしゃ)ということなのですが、末社とは何でしょうか?

神社本庁のサイトによると、神社の境内にある小さな社で本社の管理下にある神社を摂社(せっしゃ)または末社(まっしゃ)と呼ぶそうで、戦前は御祭神や由緒によって摂社と末社を区別基準があったとのことです。
現在は、祀られている場所が境内地内か境内地内かで摂社と末社を区分することもできるそうです。詳しくは神社本庁の神社のいろはのページ-境内の小さな神社について-でご確認ください。

弥彦神社には境内の中に摂社と末社があり、外にも住吉神社を含めて複数の末社があるので、大きな神社の構成の仕方を学びやすいと言えるかもしれません。

たしかに、神社の中に小さい神社があるのって割とよく見かけますね。そこで思い出したのが京都の清水寺。こちらはお寺なのに本堂のすぐ近くに地主神社がありますよね。

このように複数の神仏を一つの敷地内にお祀りする構成というのは日本独自のものなのでしょうか。

キリスト教のカトリックの教会の中には、主祭壇のほかに複数の祭壇があって、それぞれ異なった聖人に捧げられていることがあります。聖人には守護聖人という概念や信仰があって、健康(治癒)、職業、地域などを守ってくれるということなのですが、日本の神社やお寺にそれぞれのご利益を願ってお参りする感覚に似ているように思います。

さて、「蛸ケヤキ」と住吉神社の関係がまだわかりません。この住吉神社は、突然の水難からの加護を願い住吉三神が祀られているとのことです。

「蛸」、「水」、「神様」・・・なんとなくつながってきたような気もします。住吉三神について調べてみましょう。

 

住吉三神は海の神様

調べた結果をまとめると次のようになります。

・住吉三神(すみよしさんしん)。住吉大神(すみよしおおかみ)とも呼ばれる:底筒男命(ソコツツノオノミコト)、中筒男命(ナカツツノオノミコト)、表筒男命(ウワツツノオノミコト)の総称。

表筒男命は上筒男命の表記もある。

 日本神話では、住吉三神は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が黄泉国から帰って海に入って禊(みそぎ)を行った時に海中で生まれた。

住吉神社は全国に約2300社あり、その総本社は大阪の住吉大社です。地名も大阪市住吉区住吉!

蛸ケヤキのある住吉神社の御祭神(ごさいじん)は住吉三神ですが、大阪の住吉大社では住吉三神のほかに神功皇后(じんぐうこうごう)も御祭神として祀られています。

従って、大阪の住吉大社の神様についての情報を調べるときは、この点に注意する必要があります。

大阪の住吉大社の神様:

禊の神・航海安全の神:住吉大神は禊のときに海中で生まれたことから。

和歌の神:住吉大神が現れて和歌を通じて託宣(たくせん)するという話がいくつもあることから。和歌によく出てくる(歌枕)「すみのえ」というのは住吉の昔の名前で、「住江」や「墨江」などの書き方になっていったようですね。

農耕・産業の神:住吉大神が草を敷かずに苗代を作る方法を教えたことから農耕の神となったそうです。でも「草を敷かずに苗代を作る」という意味がよくわかりません。
他のサイトをいろいろ見てみると、播磨国風土記の記述に由来していることがわかりました。
播磨国風土記の話:現在の兵庫県加西市河内の里に住吉大神が訪れ、神様の食事の時に村人が集めていた草を敷き詰めました。しかしこの草を苗代に使うつもりだった所有者が困ってしまい、それを神様に伝えました。すると神様は、ここでは草を敷かなくても苗が育つと言って、その通りになったそうなのです。それまでは苗代に草を敷いていたんですね。

弓の神:神功皇后の新羅出兵(三韓征伐さんかんせいばつ)の話と、神功皇后が大阪の住吉大社に警護のために土師弓部(はじのゆみべ)16人を置いたことがもとになっているようですが、土師弓部とは何かはわかりませんでした。土師(はじ)氏の弓の担当部署?

相撲の神:かつての住吉大社年中行事に由来しているようです。

最初は海の神・禊の神として信仰の対象となって、その後、和歌の神などとしても祀られるようになったと考えていいようですね。

ちなみに神功皇后は、小豆島・宝生院のシンパクを植えたとされる応神天皇の母で、九州を中心に数多くの伝説が伝わっているそうです。

なお、三神の名前-底筒男命(ソコツツノオノミコト)、中筒男命(ナカツツノオノミコト)、表筒男命(ウワツツノオノミコト)-の最初の漢字「底」、「中」、「表(または上)」は、それぞれの神が生まれた海の深さのことを示しているのだそうです。つまり底筒男命(ソコツツノオノミコト)は海底で生まれたということですね。

名前の2番目の漢字「筒」については、原見敬二著『古事記に見る海事思想』(PDF)では、「ツツ」は「ツチ」のことで、「ツ」は助詞、「チ」は尊称であることの他に、有力な2つの説が挙げられています。1つ目は「筒」は船の中央に立てる柱のこと。2つ目は、「筒」は「星(ツツ)」のことで、底・中・上はオリオン座を代表する3つの星で、それが航海の指標として使われていたそうです。

弥彦の蛸ケヤキのある住吉神社は御祭神は、水難から守ってくれる住吉三神をお祀りしているので、住吉三神の「水」に関する面との関連性をもう少し探究してみようと思います。

『新潟県:歴史・観光・見所』というサイトの「弥彦の蛸ケヤキ」のページで、「欅の幹を取り囲むように玉垣が設けられている事からも欅自身が神格化され信仰の対象になっていたと思われます。」とあります。

水難から守るというのは、航海や漁での安全ということのほかに、海だけでなく川や湖なども含めての水辺でのあらゆる事故から守るということかもしれません。

人々はケヤキの形に大蛸のイメージを重ね、海の主であるかのような蛸の前に祠を建てて海の神様のご加護を願ったのではないかと考えます。

弥彦に蛸にまつわる伝説がないかどうか調べてみましたが、見つかりませんでした。

 

明訓校の校内にあった祠(ほこら)

祠は、明訓校の校内に建立されてから校内神社となっており、明治28年(1895年)に廃校になった際に、住吉神社の氏子有志が譲り受けて今の場所に移したと伝えられています。

校内に祠を建立するというのは、今では考えられないと思うのですが、どういった経緯でそうなったのでしょうか?

新潟県立文書館のサイトに貴重な情報が公開されています。初代校長は国学者の大橋一蔵(おおはしいちぞう)氏で、なんと明訓校は弥彦神社禰宜(ねぎ)鈴木家の土蔵を校舎としてスタートしたそうです。禰宜というのは神職のひとつのようですね。

開校が明治13年(1880年)で、3年後の明治16年に弥彦神社北東に洋風建築の校舎ができ、現在は校舎はなく石碑があるそうです。

つまり明訓校は弥彦神社の一角にあったようなものなのですね。

明訓校は後に県立校となり、財政悪化による廃校と再開を経て、生徒数減少によって最終的に廃校になってしまったわけですが、「明訓」の名は新潟夜間中学校、続いて野球強豪校である新潟明訓高等学校に引き継がれ現在に至っています。

注:出典は、新潟県立文書館のサイトの中の越後佐渡ヒストリア『第29話~来たれ!生徒諸君~弥彦の明訓学校』のページですが、リンクURLが長いので、新潟県立文書館のトップページのURLのリンクを貼っておきます。

更に調べていくと、現在の新潟明訓高等学校も弥彦神社とつながりがあることがわかりました。

昭和27年(1952年)に世界平和を祈って弥彦神社と新潟明訓高等学校とが学校林設定契約を結び、弥彦神社が所有する山林に生徒たちがアカマツ約9000本を植樹したそうです。
このアカマツの育成と保護は神社と学校が協力して行い、2002年に伐採して神社と学校が受け取る内容の契約だったようですが、その後の情報が得られませんでした。

ただ、弥彦の丘美術館の入口すぐ近くに「新潟明訓高等学校学校林」という標柱があるそうなので、伐採はされておらず、保護が続けられているように思われます。

弥彦神社と明訓は学校の組織が変わっても、強いつながりを持ち続け、そこに「蛸ケヤキ」や「学校林」という「木」が存在していることに不思議な縁が感じられます。

 

ちょっと寄り道

前回の記事「お正月の門松」で、兵庫県高砂市(たかさごし)の高砂神社の相生の霊松(あいおいのれいまつ)について調べました。
この松は一つの根から雌松(アカマツ)と雄松(クロマツ)の幹が出て、尉と姥の2神が現れて夫婦の在り方を示すためこの松に宿ると告げたことから、この呼び名がついたそうです。

能の演目『高砂』では、播磨国(兵庫県)高砂にある高砂の松と摂津国(大阪府)の住吉にある住の江の松とが一つの根から成っている相生の松であり、主人公は高砂から住吉へ向かい、そこで住吉明神が現れて平和な世を祝福します。

 

弥彦村は木の好きな人にぴったりの場所

蛸ケヤキは昭和27年(1952年)から県指定天然記念物に指定されていますが、『弥彦村』のサイトによると、弥彦には他にも県指定天然記念物の「弥彦の婆々スギ」や「弥彦参道スギ並木」というのがあるそうです。

「木を見て森を見ず」ではないですが、蛸ケヤキやその他の天然記念物だけでなく、弥彦村全体について見てみましょう。

弥彦村は樹木に覆われた弥彦山(634m)の麓にあり、自然に恵まれた土地なのですね。11月には新潟県森林まつりも開催されます。

弥彦神社も森の中にある感じですし、近くに城山森林公園という樹木の宝庫のような場所もあります。

実は私も弥彦神社に行ったことがあるのですが、雨がかなり降っていたので、ゆっくり散策することができず、蛸ケヤキがあることにも気が付きませんでした。

でも木の存在感がとても感じられる場所でした。たくさんあるからというだけでなく、それぞれの木に個性があって、それが雨という天の恵みを受けて新鮮な緑の呼吸をしているような感じでした。森林浴というのはこういうことなのでしょうか。

弥彦神社で見かけた木の根
弥彦神社で見かけた木の根(2009年8月撮影©KY)

また、この記事では写真を掲載できませんでしたが、境内にある御神木は椎の木で、弥彦村のサイトによると「御祭神が携えられた椎の杖を地中に挿され、この地が自分の住むべき土地ならば繁茂せよ、と仰せられたところ、芽を出し根をはり、たちまち大木になったと伝えられています。」とのことです。

弥彦神社(通称:おやひこさま)の御祭神は天照大御神(アマテラスオオミカミ)の御曾孫にあたる天香山命(アメノカゴヤマノミコト)で、神武天皇から越後国の開拓の命を受けて、海水から塩をつくる技術、漁業、稲作、酒造りなどを住民に教えたとされています。

弥彦神社の玉の橋
弥彦神社:神様が通る橋、玉の橋(2009年8月撮影©KY)

神武天皇は日本の初代天皇とされる人物なので、住吉大神や神功皇后(第14代天皇である仲哀天皇の皇后)の時代より更に古い時代のことですね。
宮内庁の天皇系図によると、神武天皇の在位は紀元前660年から紀元前585年です。
紀元前660というと縄文時代ですよね?

そんな太古の時代にまで遡る歴史のある弥彦。かわいい鹿もいるので、また行きたい場所です。

弥彦神社の鹿
弥彦神社の鹿(2009年8月撮影©KY)

 

今回の旅を振り返って

これまでの記事もそうでしたが、木について調べているのに、どんどんと神話の方に話が進んでいってしまいます。調べるのがかなり大変です。
こんなことになるとは全く思ってもみませんでした。神話や伝説なので、いろいろな説があり、調べた結果をどのようにまとめていったらいいのか悩みます。

でも、今までは神社にお参りに行っても、御祭神について考えたこともほとんどなかったので、また新しい視点から見れるようになりました。

「蛸ケヤキ」は、落葉した時期だと葉の様子がわからなくなってしまいますが、蛸の足のように広がった枝を見るにはいいですね。

全国にある様々な大ケヤキの写真もネットで見ましたが、それぞれ幹や枝ぶりが個性的で、確かに落葉した時にこそ、その持ち味が目立つ、「けやけき木」が名前の由来だというのがよくわかりました。

もしかして父はそれで11月に蛸ケヤキを見に行ったのかも?

それにしても、木に海の動物の姿を見出す人間の想像力ってすごいなと思いました。

夜になって風が吹いたりすると、枝がざわめいたりして、その独特のシルエットが更に大きな存在感と迫力を見せるんでしょうね。

この記事を読んでいただいてどうもありがとうございました。

主な出典(順不同)(本文内に入れたものは省略してあります)

弥彦浪漫パワースポット
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月刊京都史跡散策会第38号
大阪市立図書館
古代の加西と播磨国風土記(PDFのリンクが貼れないようですが、かさい観光の資料のようです)