三重県伊勢市(みえけんいせし)
伊勢神宮外宮(いせじんぐうげくう)の「清盛楠(きよもりぐす)」
樹齢推定1000年。
樹高約10m。幹周約9m。

出発
皆様、こんにちは。
昨年1月に新潟県弥彦村の蛸ケヤキについて書きました。落葉した枝の魅力を知り、その時から、冬は落葉した木々の枝を見るのが楽しくなったので、今回も落葉した枝の木を選ぼうかと思ったのですが、昨年2月に撮影された楠の写真が気になりました。
落葉していないのは、どうして?
木に詳しい方はわかってらっしゃいますよね。でも私には疑問です。
では、疑問の答えを探しに出発!
クスノキ(楠、樟)は常緑樹
楠が2月でも葉をつけているのは、すばり、常緑樹だからです。冬でも落葉しない常緑樹は針葉樹だと思っていたので、楠のように幅の広い葉をもつ木の中にも常緑樹があるんですね。
楠の他に、針葉樹でない常緑樹にはどんな木があるのでしょうか?
葉の形を思い浮かべやすい木としては、ヒイラギ、榊、ツバキ、ヤツデなど。
茶の木はその名の通り、その葉からお茶が作られるわけですが、茶畑が身近にないとイメージがわかないかもしれませんね。
ちなみに、雪国育ちの私が初めて茶の木を見たのは、皇居東御苑の茶畑でした。
これ以外にも名前は知っていても、どんな木かよく知らなかったり、葉の形が思い出せない木がたくさんありました。オリーブ、ビワ、ナンテン(南天)、サツキ、サザンカ、ツゲ、ユーカリの木、クチナシ、キンモクセイ・・・
針葉樹でない、つまり幅の広い葉を持つ樹木で、落葉しない(常緑)ものは、常緑広葉樹と呼ばれています。全く落葉しないというのではなく、一般的には1年から2年の間に古くなった葉が新しい葉に順番に代わっていくので、冬でも葉が茂っているように見えるんですね。
クスノキは、4月に新芽を出して古い葉は5月頃に紅葉して落葉するので、緑の葉とと赤い葉が一度に楽しめるそうです。この時期に楠を見る機会があったら、是非葉っぱに注目してみてください。
開花時期は5月~6月で、秋になると黒い実をつけるそうですが、花も実も小さいですので、木の下からは見えないかもしれませんが、観察してみたいものです。
クスノキは巨木になる
楠はクスノキ科で、高さは通常15~20メートル。
40メートルの大木になるものもあるそうで、また、幹回りでの巨樹のランキングに入っている木の種類では楠の占める割合が高いです。
その中で鹿児島県の蒲生(かもう)の大楠は幹回り24メートル以上で日本一。
清盛楠の樹齢も1000年と推定されていますが、大分県の柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)の楠は樹齢3000年だそうで、楠は長寿の木なんですね。
分布範囲は、本州の関東以西、四国、九州、沖縄、外国では台湾、中国南部、朝鮮、インドシナなどだそうです。もともとは日本に自生しておらず中国からの外来種ではないかとも言われています。
清盛楠の名前の由来
清盛楠の名前の清盛は、平清盛(たいらのきよもり)のことです。また、清盛楠と書いて「きよもりぐす」と読むそうです。
平清盛(1118-1181)は平安時代末期の武将で、武士として初めて太政大臣となりました。娘の徳子を高倉天皇に嫁がせて皇室の外戚となり政権を掌握し平氏の全盛を築きましたが、独裁政治に反発した平氏打倒の戦いが次々と起きる中、熱病で没しました。
ではなぜ清盛楠と呼ばれているのでしょうか?
伊勢神宮のサイトでも紹介されている有名な言い伝えがあります。
清盛が勅使(ちょくし)として伊勢神宮に参向(さんこう)した時に、枝が冠に触れたので、枝を切らせたことからこの名が付いたというものです。
清盛は勅使として伊勢神宮には3回参向したそうで、枝切りがいつ行われたのかまではわかりませんが、太政大臣になった1167年だとしても、今から850年も前にこの楠は既に大きかったのですね!

勅使:天皇の使者
参向:身分の高い人の所へ行くという意味の他に、勅使参向と言う場合は、勅使が寺社仏閣を訪れるという意味で使われています。
楠を切らせたのは息子の重盛?
清盛楠のエピソードとして、実は楠の枝を切らせたのは清盛ではなく、息子の重盛だったという説もあります。それはどうしてなのか調べてみました。
『宇治山田市史』(上巻・頁828)には、「清盛楠」の部分で、
「平重盛が勅使として参向した時、其の枝が御橋の上までさしかかり冠(或は乗輿)に障るによって枝を伐取らせたので、世人重盛楠と称したのを何時しか清盛楠と誤傳したものを云はれて居る」
と書かれています。

『宇治山田市史』の出版年は昭和4年(1929年)なので、それより古い文献を調べてみると、明治30年(1897年)の小川稠吉著『度会郡誌』(頁47)に清盛楠に関する記述があります。
「清盛堤及清盛楠」という見出しにある部分で、
「清盛楠と云うものあり。同し頃、勅使として、参拝せし時、其の枝、冠に障りしを以て、之を伐らしめより、かく名つけたりと云ふ」(原文は漢字カタカナ表記)
つまり、この文書では清盛が枝を切らせたという伝承だけで、重盛については触れられていません。
『伊勢志摩百物語~名木・奇樹を訪ねる~』(皇學館大學伊勢志摩百物語編集員会)の中に収録されている朝倉正樹著「6.清盛楠(伊勢市外宮)」を読むと、重盛説についての更に古い文献として『紀談拾遺』(1759年)があることがわかりました。
この「6.清盛楠(伊勢市外宮)」には、清盛楠が2本に見えることについての考察も述べられていますし、周辺の見どころも紹介されているので、清盛楠を見に行かれる方におすすめです!
さて、『紀談拾遺』(1759年)はインターネットで見つけることができたのですが、草書体のため私にはほとんど解読できませんでした。見出しは「勅使重盛楠樹」となっており、重盛の名前と冠という文字は読めました。
また、「今は宝暦2年(1752年)なので588年のことである」というようなことが書かれているように思われます。1752年から588年前というと1164年ですから、重盛が勅使として伊勢神宮に参向した年ということでしょうか?
『紀談拾遺』は 名古屋大学附属図書館(神宮皇学館文庫)所蔵で、新日本古典書籍総合データベースから閲覧可能ですので、ご興味のある方がいらしたら解読お願いします!
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100172072
6コマ、7コマ
上記「6.清盛楠(伊勢市外宮)」でも紹介されている『伊勢参宮名所図会』も調べてみました。
『伊勢参宮名所図会』は寛政9年(1797年)の塩屋忠兵衛 ほか6名によるもので、小松内大臣である重盛が勅使として参向の時に枝を切らせたものが、誤って清盛楠と言うようになったと書かれています。
『紀談拾遺』では見出しが「勅使重盛楠樹」ですが、その数十年後の『伊勢参宮名所図会』の頃になると清盛楠の名前の方が広まっていたため「清盛楠」にしたと考えられます。

年代順にまとめると次のようになります。
- 『紀談拾遺』(1759年):重盛楠樹(草書体で書かれているため、私にはほとんど読めなかった)
- 『伊勢参宮名所図会』(1797年):清盛楠-重盛が勅使として参向の時に枝を切らせたものが、誤って清盛楠と呼ばれるようになった
- 『度会郡誌』(1897年):清盛楠-清盛が枝を切らせたという伝承だけ
- 『宇治山田市史』(1929年):清盛楠-楠を切らせたのは重盛で、重盛楠と呼ばれていたものがいつしか清盛楠と誤伝された。また、木に障ったのが「冠(或は乗輿)」となっている。
このように18世紀の書物に重盛楠から清盛楠に変わったことが書かれているのは、この楠がその当時から既に有名であったことの証拠ですね。
今はもう昔となった各時代に、この名前の由来を記録しておこう、伝えようと書き記した人々の気遣いがなんだか微笑ましく思えるのは私だけでしょうか。さて、クスノキは漢字で楠または樟と書きます。「樟」の方が正しいのではないかという説もあります。
『日本書紀』の中に「樟木で仏像二躯を造らせた」とあるそうなので、奈良時代は「樟」が使われ、18世紀の『紀談拾遺』でも『伊勢参宮名所図会』でも「楠」の字が使われているので、江戸時代には「楠」が一般的になっていたと言えます。
いずれにしても、「樟」という書き方を知ると、クスノキから作られる樟脳(しょうのう)との関係がなんとなく見えてきそうですね!
樟脳(しょうのう)とカンフル
実家にある着物の入った箪笥(たんす)の引き出しを開けると、まるで時代をさかのぼるかのように日常とは違った匂いが広がりました。この匂いは樟脳(しょうのう)と呼ばれる防虫剤から出ていたものですが、その原料が楠だったとは知りませんでした。
クスノキの語源は、「薬の木」、「臭い木」、「臭(くす)し木」、「奇木(くしきき)」などいろいろあるようです。木の部分だけでなく、葉にも芳香があるとは、香り成分がいっぱいなんですね。
樟脳はクスノキの根や枝を水蒸気蒸留して作った結晶で、カンフルとも呼ばれていますが、クスノキの学名 Cinnamomum camphora からもカンフルの木であることがわかります。
英語ではカンファー・ツリー camphor tree またはカンファー・ウッド camphorwood、フランス語ではカンフリエ camphrier、アルブル・ア・カンフル Arbre à camphreです(注:フランス語発音「R」は便宜上ラリルレロ表記にしてあります)。
つまりクスノキはカンフルの木として西洋でも知られているということです。クスノキはヨーロッパに分布していないのに、なぜ名前だけ定着しているのか不思議ですよね?
コーヒーやバナナのように木が分布しなくても消費だけ拡大したものはたくさんありますから、カンフルだけ伝わったとも考えられますが、まずはカンフルという言葉から調べてみましょう。
カンフルの語源「チョーク」
カンフルの語源は、マレー語 Kapur Barus(「バルスのチョーク」という意味)の Kapurからアラビア語で al kafur、そしてラテン語で camforaとなったとされています。
チョークは教室の黒板に使うチョークをイメージしてしまいがちですが、それは現代の日本では黒板のチョークが身近なものであるためで、もともとチョークという言葉は、石灰岩の一種のことを意味しています。ちなみに石灰岩の主成分は炭酸カルシウムだそうです。
もちろん、最初にカンフルを手に入れた人々もそれが岩石のチョークではないとわかっていたはずですが、白いカンフルを形容するのに一番適した言葉だと判断したのでしょう。
ではBarusというのは何を意味しているのでしょうか?
バルス(Barus)はインドネシアのスマトラ島にあった港町の名前で、かつてはカンフルの売買が行われていました。バルスと言えばカンフルというほど知られていたのです。
日本語サイトで「バルス」で検索すると、ほとんどがラピュタの呪文に関する情報になってしまうので、調べる場合は「バルス、スマトラ」、「バルス、カンフル」など複数キーワードでの検索をおすすめします。
日本の研究者や専門家によるバルスに関する調査は、中国やインドネシアの文献を中心に行われたようなので、このブログではそれらの結果を補完する意味で、フランス語検索で得られた情報を中心にお伝えします。
バルス(Barus)という地名は今でもありますが、当時から現在までずっと同じ場所にあるのかというのは長い間謎につつまれていました。
カンフルの取引で知られたバルスは、2世紀頃には中国とアラブ世界で知られていたそうです。
その後更に広く知られるようになり、Pancur、Fansur 、Barus、中国語では「婆律(P’o-lü)」というように、様々な言語で記述されました。
マレー語 Pancurまたはバタック語のPantsurがアラビア語で Fansurになったものとされていますが、地理的な詳細の記載が少なく、明確な場所はわからなかったのです。
1970年代になって考古学調査が行われ、その後バタック(Batak)王国年代記の内容が知られるようになりました。この年代記では、バルスの最初の王国名は Pancurで、その発祥にまつわる話や中心地が何度か移転したことが示されているそうで、その内容に注目した考古学調査が1990年代から行われています。
詳しく調べたい方への文献情報:
Claude Guillot, Sonny Wibsono, Daniel Perret, Le programme franco-indonésien de recherche archéologique sur Barus, (I. Données et perspectives. In: Archipel, volume 51, 1996. pp. 35-45
Claude Guillot, Ludvik Klaus, La Stèle funéraire de Hamzah Funsuri, (In: Archipel, volume 60, 2000. L’horizon nousantarien. Mélanges en hommage à Denys Lombard (Volume IV) pp. 3-24
Jane Drakard, An Indian Ocean Port : Sources for the Earlier History of Barus, In: Archipel, volume 37, 1989. Villes d’Insulinde (II) pp. 53-82
ティーエーエムインターナショナル-スマトラの王国 その歴史と足跡-スマトラ地区の王国・王宮、その歴史と足跡
以上見てきたように、「カンフル」の語源が「チョーク」であり、その取引地バルスはスマトラ島にある地名ということがわかりました。
しかしオリエントやヨーロッパのカンフルの歴史がこれほど古くまで遡れるのに、日本語で「カンフル」、「カンフル剤」、「樟脳」の歴史を調べると、江戸時代中期頃までの説明にしかたどり着きません。日本にはクスノキがあるのにどうしてでしょうか?
バルスのカンフルの木はクスノキではない
バルスのカンフルは樟脳ではなく龍脳で、龍脳はクスノキではなくフタバガキ科の龍脳樹と呼ばれる木からとれるのです。
龍脳樹の分布はスマトラ島、マレー半島、ボルネオ島と、非常に狭い範囲にとどまっています。
日本語では龍脳と樟脳で区別しやすいのですが、龍脳樹もクスノキもなかったヨーロッパでは、中国や日本の樟脳が輸入されるようになってからも、どちらもカンフルと呼ばれ、かなり混乱していた時期があります。
バルスのカンフル、つまり龍脳はヨーロッパでどのように使われてきたのか、いつ頃から中国や日本の樟脳が入って混乱していったのか、違いがわかったのはいつ頃なのかなどを調べてみました。
情報収集はフランス語サイトから見つかる資料と文献を対象としました。
中世以前のカンフルの歴史について細かく説明しているサイトや資料は見つからなかったのですが、少しずつ得られた情報を総合してみると、医療用と香料として使われたようです。
中世では、十字軍の遠征(11世紀~13世紀)によって、東方文化がヨーロッパに伝わり、その中に香料や香辛料もありました。カンフルのフレグランスとしての使い方はその頃に伝わったようですし、薬として知られるようになったのが11世紀頃と考えられているので、カンフルは11世紀以降急速にヨーロッパに広まっていったのでしょう。
14世紀頃には黒死病(ペスト)対策に使われました。これはカンフルだけを使うというより、その他の香草やお香とともにカンフルも黒死病を避けるために使われ、空気を清浄にしたり瘴気(しょうき)を取り除く効果があると考えられていたようです。
17世紀以降の文献は比較的見つけやすく、カンフルに関する記述も多くなりますが、ほとんどが医学、化学、薬学の分野で扱われています。
19世紀には医学も化学も急速に発達したせいか、文献もたくさん見つかりますし、カンフルの使用方法や効果も詳しく書かれています。
抗炎症作用、鎮静作用、腐敗抑制作用、殺菌作用など、また、特に神経系の病気に効果があるとされていました。
一方で、興奮作用や発汗作用もあると考えられ、適切な使用量を守るようにと注意している著者もいます。
龍脳と樟脳を区別できていなかった時代、内服にも外用にも使われていました。使い方は、カンフルだけ、あるいは他の薬やアルコールなどと混ぜたり、お風呂に入れたり、軟膏にして塗ったりと、目的に応じた様々な調合方法や使い方が試されていました。
眼科では外用で軟膏を使っていたようです。
医療用以外では、花火やワニスなどの製造にも使われ、防虫用としては布の上に置いたりして使っていたようです。また、動物のはく製にも使われたそうですが、これは腐敗抑制作用があると考えられてのことなのでしょう。
これほど用途が多いので、カンフルを万能薬だと考える人が出てきても不思議ではありません。
その代表的な人物は、フランスのフランソワ・ヴァンサン・ラスパイユ(François Vincent Raspail) (1794-1878)です。ラスパイユは医者ではありませんでしたが、カンフルを万能薬と考えて熱心に推奨し、医療目的でのカンフルの様々な使い方や効果を書いた著書が知られています。
当時は、ボルネオやスマトラのカンフルの方が日本や中国のものより優れていると書いている著者が多いのですが、ラスパイユは効き目の強さを重視したのか、強さでは日本のカンフルが最高であると考えていました。日本人が国内で医療用に大量使用するのでヨーロッパへの輸出量が少ないと書いています。
こうして一種のカンフルブームが起きたようで、フローベールの小説「ボヴァリー夫人」(1857年刊行)にカンフルとラスパイユの名前が出てきます。
では、ヨーロッパで龍脳樹とクスノキの違いがはっきりわかるようになったのはいつ頃でしょうか。
中国産のカンフルは17世紀にはヨーロッパに輸出されていたようで、17世紀のフランスの学者や医者たちは、ボルネオ(この頃になるとバルスよりもボルネオの地名が知られていたらしい)のカンフルと中国のカンフルを比較し、その後日本のカンフルもあわせてそれぞれ性質の違いを調べています。
カンフルの性質的な違いとともに、それが採取される木の違いについても注目されるようになりました。
バルスのカンフルの木を詳しく知ることができるようになったのは、自然科学者でもあり医者でもあった人々が現地に行くようになった17世紀末から18世紀にかけてのことだそうです。
そして驚いたことに、日本のクスノキは17世紀にヨーロッパに伝わっていました。
詳しくはこのページの「ちょっと寄り道」をご覧ください。
それでもまだボルネオのカンフルの木と日本のクスノキとのはっきりした区別はできていませんでした。
ボルネオやスマトラのカンフルの木がDryobalanos aromatica(龍脳樹)で、日本や中国のカンフルの木がLaurus Camphora (Cinnamomum camphora)(クスノキ)であるということが明記されるのは、19世紀になってからです。
ボルネオやスマトラのカンフルが龍脳樹から、日本や中国のカンフルがクスノキからとれるとわかった後も、フランス語で「カンフル」という言葉はそのままでした。
龍脳はボルネオールとも紹介されますが、ボルネオールは比較的新しい言葉のようです。フランス語文献では20世紀より以前のものにはボルネオールという言葉は見つかりませんでした。
ちょっと寄り道
17世紀に日本からヨーロッパに送られたカンフルの木
フランス語の文献をいろいろ調べているうちに、「1674年に日本のエンペラーの医者Guillaume RhineがJacques Breyniusに乾燥したカンフルの木を送った」という記述を見つけ、その内容に驚くと同時に信ぴょう性を疑いました。
この時代の天皇に外国人の医者がいたとは思えなかったですし、ある程度調べてみても、Jacques Breyniusの名前は見つかるのにGuillaume Rhineの名前はこのエピソード以外では見つからず、19世紀以降の文献にも手掛かりとなる情報がなかったので、調べるのをやめました。
ところが偶然にも次に進める糸口が見つかりました。Guillaume Rhineはフランス風に変化した名前で、オランダ名がWillem ten Rhijneであることがわかったのです。しかも日本語ではウィルレム(またはウィレム)・テン・ライネというカタカナ表記でいろいろ紹介されているではないですか!
フランス語の文献で「エンペラー」と書いてあるのは、「将軍」徳川家綱のことだということもわかりました。
ウィルレム・テン・ライネが送った日本のカンフルの木を受け取ったジャック・ブリュニウスJacques Breynius (またはBreyn)は、現在のポーランドに位置すると思われるDantzigという町の生まれの裕福な植物愛好家で、オランダで学んだ後、オランダで様々な植物を栽培したり収集していたそうで、植物史とも呼べる本を著しています。
ウィルレム・テン・ライネとの関係はよくわかりませんが、この著書の中にテン・ライネがお茶の歴史について寄稿しているようなので、二人は知り合いだったことがわかります。
また、ドイツ人エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)の著書の中に日本のカンフルの木の絵があったという記述もありました。17世紀には日本のクスノキの情報がヨーロッパに伝わり、ジャック・ブリュニウスを始め、日本のカンフルの木について研究する人が何人かはいたのです。
ウィルレム・テン・ライネは日本からカンフルの木を送ったようですが、その後は日本から直接送られたどうかは明らかでないものの、カンフルの木が何度かオランダに送られて、オランダやドイツで植えられて育っていたという記述があります。
「カンフルの木」という呼び方だけなので、それがクスノキかどうかはわかりませんが、ウィルレム・テン・ライネが送ったものと、エンゲルベルト・ケンペルが描いた絵はクスノキだったと言えるのではないでしょうか。
日本における龍脳と樟脳
以上見てきたように、ヨーロッパではカンフルという名前で龍脳が使われてきたので、カンフルの歴史を古くまで遡ることができます。日本の場合は、龍脳と樟脳を区別して調べるといろいろなことがわかります。
龍脳は、医療目的だけでなく香料としてアラブ世界でも西洋でも使われてきたように、日本でも仏教伝来の頃に大陸から薫物(たきもの)に使う香料として伝わり僧や貴族の間で親しまれたのです。
日本薬史学会発行の『薬史学雑誌』Vol.46, No.2」(2011)に収録されている服部昭著「家庭用樟脳発売の端緒」によれば、 日本で樟脳の結晶の生産が始まったのは16世紀末から17世紀初めとのことなので、ヨーロッパに輸出されるようになったのはその後ということになります。
また、日本では精製技術がまだ発達しておらず、粗製樟脳をオランダに輸出して精製をオランダで行い、逆輸入していたそうです。
オランダが17世紀のヨーロッパでのカンフル精製の中心地だったことは、フランスの文献でも確認できます。フランスでは精製が始まりつつある段階で、採算面でオランダにはかなわなかったようです。
ちなみにフランスやドイツで精製が始まったのは18世紀中頃ではないかと思われます。
フランスでは17世紀頃から「カンフルはできるだけ白く、混入物のないものを選ぶとよい」と考えられていたようなので、オランダでは白いカンフルに仕上げる技術が進んでいたのでしょう。
「家庭用樟脳発売の端緒」では、粗製樟脳の主な産地として、薩摩、土佐、日向、肥後が挙げられています。そのうち薩摩はフランスの文献にも時々登場し、それ以外には五島列島の記述も見られます。
鎖国中の江戸時代に樟脳がこれほど海外に輸出されていたとは意外でした。
クスノキの植樹
中国や日本のクスノキCinnamomum Camphoraが十分に知られるようになった19世紀からは、東南アジアだけでなく、マダガスカル島やブラジル、地中海地域など各地で植樹が行われました。
造林のためや観賞用に導入される一方、カンフルがセルロイドに使用されるようになって需要が大きく増加したことや日本の専売による供給不足などから、樟脳を採取するために各地で植樹され、アメリカや当時のソ連でもクスノキが植えられたそうです。また、合成カンフルの製造研究に力が入れられました。
しかしクスノキの葉から樟脳を得ることはできず、木を伐採して得るには樹齢50年以上にならないと十分な量が得られないことなどから、松から得られるテレビン油を使った合成品が主流になっていったのです。
それとは別にクスノキは、生育可能な地域では庭や街路樹として植えられるようになりました。
フランスに関して調べると、その当時植えられたものかわかりませんが、南仏アンティーブの植物園にクスノキがあることがわかりました。他の場所にもあるようですが、詳しい情報は得られませんでした。
18世紀頃まで謎に包まれていたクスノキですが、今ではフランスでも簡単に買うことができます。
日本でも樟脳の輸出が盛んだった頃はクスノキの大量伐採が問題になり、各地で植樹が行われたそうです。
木材としてのクスノキ
さて、ここでクスノキを木材として見てみましょう。樟脳よりも古くから人々に使われてきたのではないでしょうか?
満久崇麿(まくたかまろ)『仏典の中の樹木 : その性質と意義(3)(護摩の樹木) 』(1974)によると、日本に仏像が伝えられたのは6世紀と言われ、法隆寺の観世音菩薩立像や百済観音立像など、飛鳥時代は仏像に使う木はクスノキだったそうです。著者は、仏像は塗箔、乾漆なので、芳香性が理由というよりも、クスノキが身近にあって使いやすかったからだろうと推測しています。
また、『日本書紀』の中に樟木(クスノキ)で仏像を作ったという話があることがわかりました。仏像にはクスノキ、という決まり事のようなものがあったのかもしれません。
クスノキはその香りと防虫効果のため、家具類にも利用されてきました。他には、社寺建築、船、彫刻、楽器、器具、箱、木魚、仏具、玩具などにも使われるそうです。木魚に使われるのは、クスノキの香りも好まれてのことでしょうか?
木材利用ではありませんが、クスノキは防音効果があるそうで、街路樹として選ばれることも多いとのことですが、大木になることを考慮しておかないといけないですね。
龍脳樹とクスノキ
龍脳樹とクスノキについてまとめると次のようになります。
- 樟脳=d-カンフル、クスノキCinnamomum camphora 、Laurus camphoraクスノキ科の樹木
- 龍脳=d-ボルネオール、龍脳樹Dryobalanops (aromaticaなど) フタバガキ科の樹木
龍脳樹は、現在の日本で木材として紹介されている場合は、カプール、カポールと呼ばれています。
龍脳樹は、現在の日本で木材として紹介されている場合は、カプール、カポールと呼ばれています。
カンフルの語源になったマレー語の(Kapur)、つまり「チョーク」を意味する言葉が、木材用語で使われているとは驚きですが、カンフルの語源が、現地では最初から龍脳樹をカプールと呼んでいたのなら当然のことなのかもしれません。
このKapurという言葉はDryobalanopsの一般名として英語やフランス語のサイトでも見られるので、今では西洋でも龍脳樹(カプール)とクスノキ(カンフルツリー)で、はっきり区別されているということですね。
伊勢神宮と樹木
さて、今回は清盛楠ということで、その名前の由来やクスノキについて調べてきましたが、清盛楠のある伊勢神宮の建築に使われている木は何でしょうか?
これはヒノキだそうです。
伊勢神宮には、式年遷宮(しきねんせんぐう)と呼ばれる伝統があります。20年ごとに社殿を新しく造って神様にお遷りいただくお祭りだそうで、ヒノキを確保するために宮域林(きゅういきりん)(神宮林とも呼ばれる)と呼ばれる森があります。
鎌倉時代からヒノキが不足し他の地域から調達しているとのことですが、大正時代からの森林計画のおかげで、前回の式年遷宮では宮域林のヒノキも使えたそうです。
これからも宮域林のヒノキが大きく育っていきますように!
この宮域林にはヒノキだけでなくクスノキも含め、様々な樹木が植えられているそうです。
旅のアイデア

自然豊かな伊勢神宮はゆっくりと訪れたい場所です。
伊勢神宮の公式サイトではモデルコースや四季折々の植物や動物が紹介されています。
今回の旅を振り返って
伊勢神宮の清盛楠から始まって、スマトラ島のバルスでのカンフル貿易や、中世の黒死病(ペスト)、ボヴァリー夫人にまで話が展開するとは思ってもみませんでした。
龍脳と樟脳が区別されてきた日本。
清盛の時代は薫物で衣服に香りをつけていたそうですが、もし龍脳も香りに使っていて伊勢神宮の楠の前を通りかかったとすれば、不思議な組み合わせですね。
クスノキは広島に原爆が投下された後に残っていたことから、広島市の木になっています。
そのためフランス語のサイトでクスノキについて調べると、この話が紹介されていることが多いです。
この記事を読んでいただいてどうもありがとうございました。
主な出典(順不同)
(本文内に入れたものは省略してあります):
朝倉正樹「6.清盛楠(伊勢市外宮)」『伊勢志摩百物語~名木・奇樹を訪ねる~』,皇學館大學伊勢志摩百物語編集員会, p.12-13
小・中学生のための学習教材の部屋-知識の泉-社会の部屋-歴史人物いちらん-平清盛
奈良県ようこそ-日本書紀めぐり旅-県民だより奈良 平成28年12月号
服部昭「家庭用樟脳発売の端緒」『薬史学雑誌』Vol.46, No.2, 2011 (PDF)
中西啓『長崎医学の百年、第一章西洋医学伝来、第ニ節出島のオランダ商館医』,1961, 長崎大学学術研究成果リポジトリ
OFFICIAL WEBSITE FORESTRY DEPARTMENT PENINSULAR MALAYSIA
Larousse-Encyclopédie-les croisades
Saint Martin de la Brasque – 1348 La peste noire dans notre région
François-Vincent Raspail, Manuel annuaire de la santé ou médecine et pharmacie domestique, 1847, p.72
Jean-François HUTIN, Raspail, Don Quichotte du camphre ! (PDF)
Tissot P., La culture du Camphrier et la production du camphre, In: Revue de botanique appliquée et d’agriculture coloniale, 15ᵉ année, bulletin n°165, mai 1935. pp. 340-350
INRA Science & Impact – Bienvenue sur le site du Jardin botanique Thuret
Gloubik Sciences- Le Camphrier du Japon
Biographie universelle, ancienne et moderne, ouvrage rédigé par une société de gens de lettres et de savants, tome cinquième, 1854, p571-572
Jean Philippe Graffenauer, Traité sur le camphre, 1803, p.10-p.12, p.61
Nouveaux mémoires de l’Académie royale des sciences et belles-lettres, imprimé chez Georges Jacques Decker, imprimeur du roi, 1786, p.80-81
参考にさせていただいたサイトの著作権を尊重し、違反しないよう十分注意して書いたつもりですが、もし問題だと思われる部分があればお知らせくださいますよう、お願いいたします。