お正月の門松

門松が気になって調べてみた

皆さん、こんにちは。

2回目の記事を書いている途中で年末になってしまいました。。。
「もういくつ寝るとお正月~」と歌いたくなる時期、やはりお正月に関係のある木の方がいいのでは?と迷い始め、どうしても門松のことが気になったので、予定を変更して2回目は門松について調べることにしました。

門松は1本の木ではないのでブログのタイトルから外れますが、1つのことからいろんなことを見つけていくのが目的なので、楽しい旅になると思いますよ。

では、門松から始まる発見の旅へ、出発!

 

門松という名前なのに、なぜか竹をイメージしてしまう

お正月と聞いてすぐに連想できる門松ですが、実際にはあまり見かけないように思います。鏡餅や注連飾り(しめかざり)と違い、屋外に飾る大きなもので、適切な場所がなかったり運んだりするのが大変だからかもしれませんね。

門松と言う名前なのに思い浮かぶものは竹。あれ、松はどこ?と思ったら、松も使われていますが、少し脇役っぽい。どういうことなんでしょうか?

それはどうも私が東日本の出身だからのようです。門松の仕上げ方は、大きく分類して関東風と関西風があり、関東風は竹が長く松は短く下の方に集まって竹を支えているような感じですが、関西風だと竹と松が同じぐらいの高さに揃えられていることがわかりました。

年賀状や広告などのイラストでは関東風の竹が長い門松が描かれていることが多いのではないでしょうか。それで門松と聞くと竹の方を先にイメージしてしまうのかもしれません。

ところで門松は何のためにあるのでしょうか?

 

門松は歳神様(としがみさま)をお迎えするためのもの

ネットで検索して見つかる一般的な説明は、「門松は歳神様(年神様)を迎えるために、歳神様が家を見つけやすくなるように目印として立て」、「迎えた歳神様(年神様)の依代(よりしろ)とする」というものです。依代というのは神霊が宿る場所のことだそうです。

 

歳神様について

歳神様とはどういう神様かと調べたら、「その年の幸せをもたらしてくれる神様」、「穀物の神様」、「ご先祖様」、「大年神(おおとしのかみ)」といろいろな説明がありました。

「穀物の神様」とするのには、本居宣長による「登志とは穀のことなり」という言葉がいろいろなサイトで引用されています(穀は特に稲のことを示すそうです)。この原文を確認することができませんが、本居宣長の時代には大飢饉や浅間山の大噴火など厳しい条件の中で米は尊いものであったと考えられています。

「ご先祖様(祖霊)」のことという見方は、柳田國男の説が挙げられています。これについての他の複数の参考文献の内容を総合してみると次のようになります。

古来より、春になると山から里に下り、秋になると山に戻るという田の神去来伝承というものがあったが、土地によっては山の神と田の神が同一視されるようになることもあった。また、他の神々も存在することがあった。しかし本来は家ごとまたは一門ごとの神(氏神)で、子孫の田の仕事を守るために存在していると信じられていたからではないかというものです。また、お正月とお盆の行事の類似性から田の神は祖先神であろうと考えたとしている著者もいます。

更に、『門松のはなし』の中で折口信夫は「日本には、古く、年の暮になると、山から降りて来る、神と人との間のものがあると信じた時代がありました。これが後には、鬼・天狗と考へられる様になつたのですが、正月に迎へる歳神様(歳徳神)も、それから変つてゐるので、更に古くは、祖先神が来ると信じたのです。」とズバリ説明しています。

お正月とお盆の行事の類似性については、他の参考文献でも様々な考えが述べられており、大変興味深いです。

夏と年末の年2回先祖の霊を迎えていた習わしが、夏はお盆として仏教との結びつきが強くなり、年末は、神道における祖先の御霊を神として祀るということから歳神様をお迎えするお正月の行事となっていったという考えがあります。

しかし、お正月は農業のための祭りから始まって、祖先祭祀の方が後に加わったという見方もあります。

風習やしきたりというものが地域ごとまたは家ごとに異なる発展していくものでしょうから、歳神様は、その家ごとに違うと言えますし、また、「ご先祖様を含む五穀豊穣の神様で幸せをもたらすためにいらっしゃる」とも解釈していいのだと思います。

いずれにしても、歳神様をお迎えするために、正月事始めと呼ばれる準備期間が12月13日から始まって、煤払いをして家の中をきれいにしたり、門松や注連縄などのお正月飾り、お餅などを用意するんですね。
29日は二重苦、31日は元旦の前日で一夜飾りとされるため、門松は28日までに準備しましょう!と書いてあるサイトが多かったので、この記事も28日に仕上げようと頑張ってみましたが、いろいろな資料を読むのに時間がかかり、30日になってしまいました。

では、どうして依代として松が選ばれたのでしょうか?

 

「子(ね)の日の松」

門松の由来は平安時代の宮廷礼儀である「子(ね)の日の松」とするのが通説となっています。

「子の日の松」とは「小松引き」とも呼ばれ、正月初めの子の日に貴族が野山に出かけて行き、小さな松の木を引き抜く野遊びで、上賀茂神社の燃灯祭(ねんとうさい)はそれを神事化したものだそうです(燃灯祭が行われる日は2月第2の子の日)。

また、京都では、お正月に根引松(ねびきまつ)と呼ばれる根のついた松飾りを門や家の入口などに飾る習慣があり、これも「子の日の松」に由来しているとのことです。

天龍寺
Photo by (c)Tomo.Yun
http://www.yunphoto.net
天龍寺の根引松

「子の日」の行事は、この小松引きの他に、若菜摘みがあり、どちらも長寿を祝うためのものだったことが和歌や源氏物語などから知られています。

では、小さな松の木と若菜が長寿を祝うこととどのような関係があるのでしょうか?

小松を根から引くのは、松は常緑で長生きや強い生命力の象徴とされ、「ねのび(ねのひ)」と「根延び」を掛けて健康と長寿を祈るためだそうです。

また、子の日の行事は、中国にあった風習が日本に伝わり、奈良時代から既に行われており、野山に出るのは邪気を祓い煩悩を除くためでもあったとされています。

これは山の上や海岸で初日の出を拝む(太陽信仰、または太陽=天照大神?)風習につながっているようにも思われますね。

 

ちょっと寄り道

子の日の小松引きと若菜摘みの行事については、同志社女子大学生活科学部教授・森田潤司先生の『季節を祝う食べ物-(2)新年を祝う七草粥の変遷』に、とても詳しい説明があります。

若菜摘みは、単なる遊びではなく、冬の間に新鮮な菜類を得るために民衆の間で古くからおこなわれていたものだったことがわかります。

宮廷では、宇多天皇の時代の896年に子の日の宴において、松にあやかって長寿を祈り、若菜を羹(あつもの)として食したことが挙げられており、松は象徴的な意味で、若菜は具体的に体に働きかけるものとして、両方が長寿を願うために組み合わされていたのです。

若菜の羹は七草粥のルーツなのでしょうか?

この論文では、もともとは七種(ななくさ)の羹を食する正月7日の行事と子の日の若菜の羹の行事がそれぞれ独立した行事だったものが、7日の七種の羹の方にまとめられていったということを明らかにしています。

また、15日には七種の穀物を入れた七種粥という伝統があり、それが7日の七種の羹と合わさって、鎌倉時代から室町時代にかけて七種粥だけになり、江戸時代に入って、幕府によって7日に七種類の若菜を入れた粥を食することが行事となって、それが民衆に伝わり現在の七種粥(七草粥)になっていったことがわかります。

このように、子の日の行事として行われていた小松引きと若菜摘みは、それぞれ異なった発展をしていき、今では関連性がわかりにくくなってしまいましたが、いずれもその風習が伝えれてきたのです。

森田潤司教授の論文から、もうひとつ考えてみたいことがでてきました。

12世紀の『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』の記述の引用とともに「子の日に小松を引く起源の一つは、子日に引いた小松と耆(豆科のメドハギ)を用いて玉箒を作ったことに関係すると考えられる」(注:耆には「き」のふりがながあります)という、興味深いテーマを挙げてくれています。

ちなみに、玉箒(たまばはき、たまははき、たまばわき)という言葉だけ調べると、新年の最初の子の日に蚕室を掃き清めて蚕神を祀る儀礼用として使われたものだそうですが、玉箒という言葉が材料である植物を意味することもあり、そこからいろいろなことが考えられるのです。

ただし、ここで注意したいのは、『袖中抄』の記述は、宮廷ではなく田舎での風習についてです。若菜摘みも小松引きも、もともとは庶民の風習であり、小松は蚕室の清掃用の箒を作るために引き抜かれていたのが、宮廷行事に取り入れられ変わっていったのかもしれません。

正倉院に収められている「子日目利箒(ねのひのめとぎのほうき)」は、758年の儀式で用いられたものだそうで、本体部分は、マメ科のメドハギとは異なるキク科のコウヤボウキPertya scandensの茎を束ねて作られています。コウヤボウキの別名のひとつにタマボウキがあります。

上賀茂神社の燃灯祭では、引いた小松に燃灯草(ネントウソウ)を添えて神前に供えるそうですが、燃灯草は、一般的にはキク科の玉箒(タマボウキ)または田村草(タムラソウ)Serratula coronata var. insularisとして知られている植物だそうです。

以上を総合すると、かつては玉箒と呼ばれる植物がいくつもあったのではないかと思われます。

前回の「宝生院のシンパク」の記事を書いているときに、別名がいくつもあって苦労しましたが、植物の名前というのは、最初は地域で呼び名が違ったり、複数の異なる植物が同じ名前で呼ばれたりして、別名が付いてきたのでしょうね。

森田潤司『季節を祝う食べ物-(2)新年を祝う七草粥の変遷』は、同志社女子大学学術リポジトリから閲覧可能です。

 

子の日の松から門松へ

子の日の小松引きから門松へどのように変化していったのでしょうか。

門松という呼び方と習慣については、比較的多くの情報が得られます。

平安末期の本朝無題詩という漢詩集の中で惟宗孝言(これむねのたかとき)が「門に松を挿す」と示していることが門松に関する最も古い文献とされ、堀川百首(堀河院御時百首和歌)の修理大夫藤原顕季(しゅりだゆう・ふじわらのあきすえ)の歌に「門松」という言葉が使われていることから、平安後期には既に門松という習慣があったと考えられています。

「年中行事絵巻」の一部
「年中行事絵巻」の一部
国立国会図書館デジタルコレクションより

「年中行事絵巻」の一部
「年中行事絵巻」の一部
国立国会図書館デジタルコレクションより

上の画像はインターネット公開(保護期間満了)扱いになっています。

ただ、当時の門松は現在のような形ではなかったようで、江戸時代に描かれた絵を見ると門松は大きな松だけを立てていたことがわかります。

竹は古くから日本にも存在していた一方で、孟宗竹(モウソウチク、モウソウダケ)は日本に自生しておらず江戸時代後期に入ってきた種類だということが知られており、現在の門松に見られるような竹はそれまで使われていなかったと考えられています。

竹取物語という話があるぐらいなので、他の種類の竹はどうなんだろうと思って調べたところ、太目の種類の真竹(マダケ)は日本の在来種であるとする説と、中国から導入されたという説があり、それ以外の種類の竹は門松に使われているような太さにはならないようです。

また、孟宗竹も真竹も最初は人工的に植えらてから増えたものらしいので、かつては貴重なものだったのかもしれません。

折口信夫著『門松のはなし』でも、「今日の様な形に固定したのは、江戸時代に、諸国の大名が江戸に集つた為に、自然と或一つの形に近づいて行つたのだと思ひます。或は、今日の形は、当時最勢力のあつたものの模倣であつたかも知れません。」と述べられています。

門松に竹が使われた例として、戦国時代の徳川家康と武田信玄のエピソードがありますが、ただの言い伝えではなく、記述が残っているようです。

武田軍と徳川軍が戦っている間に正月を迎えたため両軍とも門松を作り、武田信玄は竹を節のところで真横から切り「松(徳川=松平)枯れて 竹(武田)たぐひなき あしたかな」、徳川家康は竹を斜めに切って「「松(徳川=松平)枯れで、竹だ(武田)くび(首)なきあしたかな」と言ったとされています。

そのため、竹を真横に切る方法(寸胴)は武田流として主に山梨県内、斜めに切る方法(そぎ)は徳川の影響を強く受けた地域に伝わっているようです。具体的な調査結果が公開されるのを期待しています。

江戸時代の門松は、絵からその形を知ることができます。

「江戸名所図会 ・巻1」の「元旦諸侯登城之図」
「江戸名所図会 ・巻1」の「元旦諸侯登城之図」(コマ26)
国立国会図書館デジタルコレクションより

上の画像はインターネット公開(保護期間満了)扱いになっています。

人物の大きさから竹の高さは4~5メートルぐらいと考えられますが、竹は葉のある枝付きで、斜めに切る方法はまだ主流ではなかったようです。

使われている竹は孟宗竹よりも細い種類の竹に見えますから、やはりこの時代は孟宗竹はまだ普及しておらず、徳川家康が切った竹も孟宗竹ではなかったと考えられます。

「元旦諸侯登城之図」の門松は、松は竹よりも短くなっている点、また、1対で門の前に立てられている点で、現在の門松の形に近づきつつあることがわかります。

ただし、この門松は江戸城のものであって、一般の大名や商人でこのような門松が立てられていたかどうかは疑問です。

東京江戸博物館のサイトでは、「『守貞謾稿』をみると、武家の屋敷や大店の飾りには竹の添え木はないものが多く、上部を斜め切りにした竹を添え木とした松飾りは、医師などに多い飾り方としています。」とあります。

東京江戸博物館のレファレンス事例集(東京の正しい門松の形を知りたい。(2003年)に対する2015年6月8日記事)

ただ、民衆と門松が描かれている浮世絵をいくつか見ると、竹の長さは2メートル程度と推測されますが、葉のある枝付きで、松は竹よりも短い点は江戸城の門松に似ています。場所は特に門に限られていなかったようで、縁側の横に立てられた門松が描かれているものもあります。

「江戸名所図会」も「守貞謾稿(もりさだまんこう)」は19世紀の刊行です。

その後の門松の様子を知るには、横浜市のサイトで紹介されている明治時代の写真がわかりやすいです。

明治36年から37年にかけて(1903-1904)の年末年始の写真の絵葉書で、そこには江戸時代のように家の屋根を超える高さで葉のある枝付きの細い竹が門松として立てられています。

説明文によると、このように葉のついた長い竹と小さな松を入口の柱に結んだり、地面に埋め込んだりしていたそうです。

ただし、これは商家での門松についてのことで、他の民家ではどうだったのかまでは知ることができませんが、明治時代後半でもまだ現在のような形の門松はあまり普及していなかったとも考えられます。

横浜市サイト・歴史の散歩道・第174回横浜のお正月(2014年1月号掲載)

現在のような形の門松は大正時代以降に急速に普及したということになりますが、その経緯がわかるような情報が全く見つからなかったのは残念です。

ところで、「門松」という言葉は、洛中洛外の屏風が描かれた室町時代末期、「門は建物の前の庭の干し場だったといわれ、その干し場の真中に松を1本立てて神を迎えた」とのことで、現在見られるような門に1対で立てられるようになったのは江戸時代中期とされています。

和田謙寿『民俗学的に見た年末年始の習俗』

干し場とは洗濯物を干す場所ではなく、「農家でカドというのは、門のことではなくて家の外ではあるが、屋敷の内で麦や稲を干す広庭のことであった」と説明があります。そして、明治以降の都市化と文字から知識を得る人の増加に伴って、カド松とモン松が一つに考えられるようになったという経緯も述べられています。

吉川正倫先生の『門松考』は、ネットで検索するとPDFが自動的にダウンロードされてしまうのでリンクを貼ることができませんでした。『大手前女子大学論集』に収録されているようです。

吉川正倫『門松考』(大手前大学・大手前短期大学リポジトリ

次のサイトからもダウンロード可能です。http://jairo.nii.ac.jp/0352/00000778/en

文字から知識を得る、というのは、発音ではなく書かれた文字から言葉を学ぶということですね。ふりがながない漢字の読み方で生じやすい問題です(日本の戸籍に記載された人名・地名の読み方は特に困ります)。

門松についての変遷については以上のようなことがわかりましたが、そのルーツとされる小松引きの行事から門松に変わっていったプロセスを説明している情報がありませんでした。

上賀茂神社の燃灯祭(ねんとうさい)と、京都の根引松(ねびきまつ)以外に、小松引きと門松の関係がわかる手がかりはないのでしょうか?

共通点の「松」について調べてみます。

 

門松に使う松と門松の変遷について

「左に雄松、右に雌松を置きましょう」というサイトがたくさんあるのですが、門松を作っている園芸店などのサイトではそうしたことには触れられておらず、クロマツ(黒松)のことを雄松、アカマツ(赤松)のことを雌松と呼び、門松にはクロマツのみが使われていることが多い、ということだけしかわかりませんでした。

『民俗学的に見た年末年始の習俗』には、「或る故実として、左に男松、右に女松を立てるのは、伊弉諾・伊弉冊の二神をあらわし、竹は国立尊に象るといわれている」と述べられています。
(注:原文中、男松、女松、伊弉諾、伊弉冊には「おまつ」、「めまつ」、「いざなぎ」、「いざなみ」のふりがながあります)。

和田謙寿『民俗学的に見た年末年始の習俗』

亀山市史民族編というサイトでも、「雄松と雌松を一対とする門松もあるが、亀山地区の住山町や中庄町のように雄松のみを使用する場合もあった」と報告されています。

亀山市史民族編1正月準備(3)正月飾

以上から考えられることとしては、かつては左に雄松(クロマツ)、右に雌松(アカマツ)としていたが、アカマツは山地に多くクロマツは海岸に多いということから、準備をするのがとても大変で、クロマツが主流になっていったのではないかということです。

もしかすると、クロマツの葉の方がアカマツの葉より長く見栄えがよいと思われてのことかもしれません。

樹皮の色はクロマツが灰黒色、アカマツは赤褐色という違いもありますが、門松では樹皮の色はあまり考慮されないはずです。

雄松、雌松という呼び方の由来は、この樹皮の違いからという説、クロマツの葉に触ると痛いのに対して、アカマツの葉の方は触ってもあまり痛くなりからという説などがあります。

また、アカマツは山地に生えてマツタケが生える木なので、門松に使わないようにしたのかもしれませんね。

京都の根引松でも雄松と雌松としているサイトがいくつかありましたが、こちらも確認できませんでした。

これだけ雄松と雌松の区別が大切に考えられるようになったのには、何か理由があるのではないでしょうか?

『門松のはなし』に、「歳神様は三日の晩に尉と姥の姿で、お帰りになると言ふ信仰」が書かれています。

尉(じょう)と姥(うば)とは何だろう?と思って調べたところ、兵庫県高砂市(たかさごし)の高砂神社の相生の霊松(あいおいのれいまつ)にまつわる話でした。

一つの根から雌松(アカマツ)と雄松(クロマツ)の幹が出て、尉と姥の2神が現れて夫婦の在り方を示すためこの松に宿ると告げたことから、この呼び名がついたそうです。

また、尉と姥とはイザナギとイザナミであると考えられています。

『民俗学的に見た年末年始の習俗』での説明と共通する部分がありますので、門松で左に雄松、右に雌松というのは、この相生の霊松の話が能の『高砂』を通じて広く知れ渡るようになり、松、縁結び、夫婦愛、長寿といったことから、門松につながっていったものと思われます。

今では実際に市場に出回っている門松が雄松・雌松にこだわらずにクロマツだけで作られているのであれば、雄松・雌松を見分けることもできませんから、雄松・雌松をイメージしながら縁結び、夫婦愛、長寿などを祈ればいいと思います。

・・・ここまで書いてきて、更にまた調べてみたところ、次のサイトから正月飾り用の松は栽培されていることがわかりました。

「松」特集 なぜ縁起の良い木なのか、海岸に多い理由、松の葉は猫の好物?を紹介

宇田明の『まだまだ言います』門松の松は山から切ってくるの?

また、更にいろいろなサイトを読んでいくうちに、以下のこともわかりました。

  • 門松の松は栽培ものが多い

茨城県神栖市(かみすし)の若松の栽培は大正時代初期に始まったそうで、今では若松の出荷額が全国1とのことです。

注:若松とは「私たち日本人にとって特別な日『お正月』には欠かすことのできない、大変なじみのあるものなのです。」とのことで、門松やその他のお正月飾りに使われる松ということですね。

神栖市観光協会

栽培されているものがクロマツかアカマツかはわかりませんでしたが、神栖市が海に近いことからクロマツではないでしょうか。

  • 「門松カード」からわかる松の伐採問題

昭和33年12月15日の館山市広報の中に、「門松カード」に関する記事があります。

この記事によると、門松やクリスマスツリーのために松の伐採が行われて、建築材や治山治水のための木材を確保するために、「門松カード」での代用が推奨されたことがわかります。

当時はクリスマスツリーにも松が使われていたんですね~。

昭和33年12月15日の館山市広報 
次のサイトからご覧いただけます。http://www.city.tateyama.chiba.jp/hisyo/page100026.html

昭和33年頃は、松は栽培されてはいたものの、伐採が問題になっていたというのは注目すべき点です。

さて、小松引きと門松の関連性は、相生の霊松の話から、長寿という点と、神が宿るという点において、見えてきたように思いますが、ここでもう一度、風習というものは地域によって発展の仕方が異なるということに注目してみたいと思います。

まず、門松に松を使わないところや門松を立てないところがあります。松を使わない例として、東京都府中市の大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)や兵庫県神戸市の生田神社(いくたじんじゃ)、箱根の村々があります。鳥取県米子市上安曇(よなごしかみあずま)では門松を立てないそうです。

次に、『徒然草』第19段の内容から、鎌倉時代には門松が一般的になっていたという見方もありますが、これは都の話ではないでしょうか。

門松の絵にしても、それらは当時の都や大都市の様子を描いたものです。

16世紀頃の文献から地方でも門松の風習があったと確認できる記述もありましたが、それは地域的な記録なので、全国的に広がっていたかどうかまではわかりません。

小松引きは、都を中心とする門松のルーツであるかもしれませんが、全国的に同じことが言えるとは限らないように思えます。

都やお殿様の風習だからといって、民衆がすぐに真似をするでしょうか。門松なら門松というコンセプトが導入されつつも、それから先は、それぞれの地域で、それぞれの風習、信仰、風土とともに発達してきたのだと思います。

小松引きと七草粥はどちらも長寿を祈るためのものでした。長生きするには、食べ物が必要です。そうすると、田の神や穀物の神、あるいは農作物の収穫を助けてくれる祖霊に祈ることになります。

小松引きの時代の松は、お正月の神様の依代としては使われていなかったかもしれませんが、門松の風習が広がり発達していく中で、松やその他の木が歳神様の依代となっていったと考えられます。

松林のイメージ
松林のイメージ
写真ACからダウンロード

 

門松の竹

江戸時代や明治時代には使っていた竹は、太さや高さからすると、淡竹(ハチク)だと思われます。

現在は主流が孟宗竹ですが、真竹を使っている門松もサイトで見かけました。門松を作る地域で入手しやすい方を使っているのではないでしょうか。

典型的となった門松には竹が3本使われ、その比率は縁起の良い数字とされる3:5:7という説明が多いです。

竹を斜めに切る方法(そぎ)では、竹の空洞部分だけを見せるように切ったものと、節部分を見せるように切ったものがあり、節部分を見せるように切った方は、切り口が笑っている口のように見えることから「笑う門には福来る」 という意味があるそうです。

松と竹といえば、松竹梅と3つを一緒にして考えたくなります。

松竹梅の由来が歳寒三友(さいかんのさんゆう)という宋代の中国の水墨画で好まれた画題ということは、多くのサイトで紹介されています。なぜ好まれたかと言えば、松と竹は常緑で(竹は風雪に耐えてまっすく伸びるという意味もある)、梅は寒さの中で一番に花を開くからだそうですが、もう少し竹について調べてみたいと思います。

孟宗竹日本の在来種でなかったことは知られており、真竹についても日本古来のものであったか確かなことはわかっていませんが、縄文時代の遺跡から竹を使った製品が出土しているそうですし、竹取物語が平安時代のものであるということは、種類はわからなくても竹はその頃から既に身近にあったわけです。

人々が松を長寿の象徴としていたなら、竹にはどのような思いを持っていたのでしょうか。

竹は、常緑であるというだけでなく、成長が早いことや、まっすぐに伸びることなどから、人々は生命力の強さや神秘性を見出し、竹に神霊が宿る場所、つまり依り代の一つとされてきたのです。
また、中が空洞であることも神秘性を高めていたとも言われます。

七夕では竹が依代として、地鎮祭では依代を設ける神聖な場所を作るために使われます。

地鎮祭に使われる葉がついた竹は斎竹(忌竹)(いみだけ)と呼ばれ、四隅に立てて注連縄(しめなわ)を張ることで、清浄な空間となるのだそうです。

門松の松と違って、神様の依代となるのは竹ではなく、この神聖な場所に設けられた祭壇の神籬(ひもろぎ)で、神籬には榊が使われます。

このように、竹は松竹梅の縁起物としてだけでなく、神様を迎えるために適した植物の一つとされてきたために、門松にも加えられたものと考えられます。

竹林のイメージ
竹林のイメージ
写真ACからダウンロード

 

松迎え、松の内、松納め

あまり見かけないとは言っても、門松は歳神様の依代としてお正月の本質ともいうべき存在であることには変わりなく、「松の内」と呼ばれる期間も門松に由来していることがわかりました。

「松の内」は門松を立てている期間のことで、門松などに用いる松を山野にとりにいくことを「松迎え」、門松や注連縄などを取り払うことを「松納め(松送り)」と呼ぶそうです。

松納めは、1月7日、15日、または最初の卯の日としているところなど地域によって違うそうです。

取り払われた門松は、左義長(さぎちょう)どんど焼き、さいの神などと呼ばれる行事で火の中に入れ、そこから立ちのぼる煙に乗って神様がお帰りになるとされます。

子供の頃に何度かさいの神に行った経験がありますが、このような意味があることは今まで全く知りませんでした。聞いたことがあったのかもしれませんが、子供だったので、そこでお餅やスルメを焼いて食べる方に夢中だったんだと思います。冬の寒い屋外で大きな火を見ながら食べると美味しさも格別なんですよ。。。

なお、こうした行事以外で門松を処分する場合は、塩でお清めをして、他のゴミと分けて処分する方法をおすすめしているサイトが多かったです。

 

今回の旅を振り返って

お正月は歳神様をお迎えして幸福を祈る、その歳神様に来ていただくために門松があるのだということがよくわかりました。

門松について調べるということは、日本の伝統、信仰、風習、地域、昔の身分制度といった複雑な要素がいくつも絡みあって発展してきたものを、様々な角度から広範囲にわたって見る必要があると強く感じました。
中でも、民俗学を通じた調査論文は貴重で、これからもより多くの研究がなされ、論文が閲覧しやすくなることを期待しています。

ブログのテーマが木なので、今回は門松についてだけ調べましたが、お正月について語るのなら、注連飾りや鏡餅などについても調べないと全体がよくわかりません。別の機会があったら調べてみたいと思います。

また、お盆は仏教と結びつき、お正月は神道と結びつき・・・という見方にとどまらず、大晦日の除夜の鐘のことなども調べていったら、更に日本の文化がよくわかることでしょう。

情報伝達や移動の手段が急速に増加・加速していくようになるに伴い、それまで地域性を保っていた風習が全国的に画一化されてしまうのを残念に思うのは私だけでしょうか。

私たちは、伝統や風習というのは、地域性があるのが自然な流れであって、全国すべて同じ方が不自然だ、ということを忘れてしまいがちで、「存在しない正しいものを探す」ようになってしまっているのかもしれません。

人に対するマナーは、全国的に統一されていた方がトラブルを避けられて良いと思いますが、家や地域の中で伝えられてきたお正月を始め各地のお祭りといったものは、地域性が保たれないと本来の意味がわからなくなってしまいます。

でも、地域性も時とともに変化していくので、現代ではそれが薄まっていくのも仕方ないのかもしれません。記述や画像で残していきたいものです。

お正月と門松は日本独特の文化ですが、実はそれがクリスマスの文化と類似点がいくつもあることが知られています。

クリスマスもまた、本来の意味や地域性が見えにくくなってきています。

グローバル化する世界の中で、私たちはもういちど地域性の価値を見つめなおし、後世に伝えると同時に、他の文化をお互いによく理解しあい、平和な世界を築いていきたいものだと思います。

皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください。

 

本文内で紹介したもの以外の主な出典(順不同):

神社本庁・お正月のあれこれ
大國魂神社・神社の豆知識6
今宮戎神社・十日戎の笹
みんなの趣味の園芸NHK出版・七夕の神聖な植物―カジノキ・竹・笹
龍澤山善寳寺・七夕まつり
高砂市・尉と姥伝説
県立新潟女子短期大学板垣俊一教授の『近世国学の民衆的基盤-生活者としての本居宣長-』新潟県地域共同リポジトリから検索可能
京都の風俗博物館
福島美術館通信No.40
愛媛県 PDF資料 第2章竹の歴史
山梨県うらおもてなくおもてなし武将隊 風林火山 甲陽戦国隊
米子市 門松を立てない村(上安曇)
大國魂神社 七不思議について
上賀茂神社 燃灯祭(乙子の神事)
レファレンス共同データベース 生田神社 杉盛りについて 
レファレンス共同データベース 門松の竹の先について
国立歴史民俗博物館研究部歴史研究系 准教授 田中大喜先生の 第214回くらしの植物苑観察会2017年1月28日(土)『中世人と植物』
伊藤幹治『瑞穂の国再考』 CiNiiのサイトから見つけられます
吉川正倫『祖霊と穀霊-特にその論点をめぐって-』CiNiiのサイトから見つけられます。
A Tropical Garden 門松~悠久の歴史と飾り方3つのルール~

論文がPDFでお名前だけしか書かれていない場合は、情報源をたどり役職等が見つかった場合は記載させていただきましたが、間違っている場合はどうぞお許しください。

参考にさせていただいたサイトの著作権を尊重し、違反しないよう十分注意して書いたつもりですが、もし問題だと思われる部分があればお知らせくださいますよう、お願いいたします。

 

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